医局のピラミッド構造を下支えしたマンパワーが消えた
04、05年度の2年間は日本中の医局に新人が入らず、大学病院は医師不足に苦しんだ。関連病院からの医師引き揚げが頻発し、「救急車たらい廻し」のような報道が相次いだ。でも、この2年間にはまだ希望があった。大学病院の医師は、まだ信じていた、「この2年間さえ我慢すれば、以前のように新人が戻ってくる」と。
06年4月、厚労省の定めた「研修プログラム」を終えて入局した新人は、以前と全く異質な若者であった。「17時以降はフリー」「単独当直なし」「厳しい叱責もなし」「体調不良時には休んでも可」といった自由な2年間を過ごした医師が、いまさら素直に医局の駒にはなるはずもなかった。また「研修プログラム」終了後も封建的な医局制度を嫌って大学病院には戻らず、行方が追跡できない若手医師も相当数にのぼった。女医率は上昇し、「妊娠・出産を理由に医局派遣を拒否」することは「当然の権利」とされ、それに苦言を呈した指導医は処分されるようになった。
労働力としての研修医は、質・量共に低下した。医局のピラミッド構造を下支えしたマンパワーが失われ、この制度は大学病院や医局という組織にとってかなりの打撃となった。それまで「封建的」とたたかれることの多かった大学医局だが、「僻地への医師派遣」「夜間救急体制の維持」などでそれなりの社会貢献もしていた。この制度変更で、大学医局はそういう余力を一気に失った。例えば、札幌医大は1997年から北海道礼文島に産科医派遣を開始し8年間で約200人の分娩を扱ったが、2004年に休止したままである。各種のメディアで「救急車たらい廻し」「医師不足」「医療崩壊」の文字を見かけることが多くなり、それは現在に至るまで本質的には改善していない。
大学医局の黄昏
新研修医制度をきっかけに、封建的な大学病院を嫌って都会の一般病院を目指す若者が増え、大学医局の衰退が始まった。生命線であった「安定した新人供給」が断たれたのだ。だからといって、患者数は減らないし、増え続ける医療訴訟の対策として「医療安全」「感染対策」「患者接遇」などの書類や会議は増える一方であった。シワ寄せは、残った中堅医に過重労働としてのしかかった。
そもそも医局制度とは、日本社会のそこかしこに見られる年功序列制度の一種である。「若い頃に割安な給料でソルジャーとして働き、中年(おおむね40代)以降はラクでそこそこ儲かる」というシステムでもあった。 ほとんどの大学病院では、管理職トップである病院長は「定年間際の教授が数年ずつ持ち回り」なので、「このままじゃそのうちマズイことになりそう……」とうすうす感づいていても「とりあえず自らの定年までは無難に過ごす」ことが優先され、「大規模な管理職リストラ」のような痛みを伴う改革を選択する院長は、皆無であった。「なかなか入らない若手」「人数に比べ、少ない管理職ポスト」「おいしいポストは爺医が定年までしがみつき」「部下なしナンチャッテ管理職の増加」という、バブル崩壊以降に多くの日本企業で散見された症状に、大学病院も苦しむようになった。