空きっ腹をかかえて帰らぬ父を待ち続けた
富田林の街中を抜けると石川に架かる金剛大橋が見えてくる。大規模な河川改修が行われることがなかった流域の眺めは、明治や大正の頃とさほど変わらない。
河内盆地では有数の肥沃な土地。古代には百済系の豪族が多く住み、耕地が開拓された。昔は水田で羽を休める千鳥の姿がよく見かけられ、それを詠んだ歌も多く残っている。彼方に連なる金剛山地の麓まで、田畑の緑は続く。そして、キクノが暮らす集落もこの広々とした田園地帯のなかにあった。
石川支流の佐備川。本流と比べると「小川」という言葉がピタリとあてはまる細い川筋だが、この流れを境にして西側が西板持、東岸は東板持と呼ばれる集落に分かれている。
佐備川東岸は背後に丘陵が迫り、川に架かる橋を渡るとすぐに道は上り勾配となる。現在では、丘陵の全域が宅地となり家々が隙間なく建ちならんでいる。
しかし、キクノがここで暮らした当時、丘陵地は鬱蒼と茂る樹木や竹藪に覆われ、人家はその麓にへばりつくように点在していた。戸数60戸程度といわれる小さな集落だった。
佐備川に近い麓のエリアには、そんな昔の風情がまだそこかしこに残っている。所有地の境界線をなぞるように、田畑や人家の間に曲がりくねった道が続く。道沿いには祖霊を祀る祠が建ち、古い農家の母屋や蔵も多く現存している。
漆喰を厚く塗り込めて仕上げた堅牢な家が多いのが印象的。商家建築でよく見るものだが、板塀の民家よりも建築費は高くなる。それなりに余裕がなければ建てることはできない。
江戸時代、この付近一帯は幕府直轄の天領だった。財政が逼迫する諸藩は領民に重税や苦役を強いていたが、それに比べて天領では年貢率が低く抑えられ、領民に無理をさせることをしない。他領の者は「天領百姓」と呼んで羨望したという。
維新後もこの元・天領の民には代々の蓄えもあり、比較的富裕な人々が多かった。贅沢な蔵造りの家も多くなる。
しかし、キクノの実家はその例にはあたらない。所有する田畑がなかった。彼女の父は庭先で鶏を飼い、育てた鶏を売って暮らしていた。往復50キロほどの距離になる大阪まで鉄道やバスを使うことなく、鶏を入れたかごを担ぎながら徒歩で通う。交通費を払っていたら儲けが出ない。心細く薄利な商売だった。
周囲も同じように貧しければ、劣等感にさいなまれることはなかっただろう。しかし、ここは豊かな天領農民の村。
隣近所では同年齢の子どもたちが、日々の食事の心配をすることもなく、笑顔で遊び歩いている。それを横目に、キクノは空きっ腹をかかえて帰らぬ父を待ち続ける。商売が上手くいかなければ、食事にもありつけない。
「父は朝早く行商に出かけてゆきます。すると私は、弟のめんどうをみながら一日中るす番をしているというわけですが、時おり、近所に住んでいる母方のおばあさんが見回ってくるのが関の山、食事の始末やらせんたくやら、(中略)とにかく、よその同年配の子供よりはずっと家の役にはたっていたようですが」