南口キクノ、屈辱の「黒歴史」とは
南口キクノ。彼女にとってその名は、辛い過去の記憶でもある。この名で呼ばれていた頃は貧困に苦しみ、人々の不人情を嫌というほど味わっていた。
屈辱の「黒歴史」。それも女優には必要な経験だったと、彼女はことあるごとに語ってもいる。だから、CMで本名を公表することにも、躊躇はなかったのだろう。
「演じる」という芸の修業には、経験に勝るものはない。
「昭和の怪女優」
映画ファンは畏敬の念を込めて彼女をそう呼ぶ。人情味あふれる庶民的なおかあちゃん、気品を醸す上流階級の夫人、迫力満点の女博徒、そしてまた、不気味な老婆の妖怪……と、どんな役でも違和感なくみごとにこなしてしまう。
これまでの人生経験が、演技にリアリティーと味わいを深める。南口キクノとして生きた不幸な時代もまた、昭和の怪女優を形作る重要な要素。だから、その名を忘れることなどできはしない。
劣等感にまみれた幼少の頃
明治40年(1907)11月19日、南口キクノは大阪府南河内郡大伴村(現在の大阪府富田林市)の東板持と呼ばれる集落に生まれた。近鉄長野線・富田林駅から2キロほど離れた場所。いまなら南大阪線・大阪阿部野橋駅から30分もあれば行くことができる。
しかし、当時はまだ、富田林まで大阪市内からの直通列車はない。河南鉄道と呼ばれるローカル鉄道が、関西本線・柏原駅との間を結んでいた。大阪市中に入るには列車を乗り換えねばならず、そのぶん現在より所要時間は長くなっていたはずだ。
車窓からの眺めも、現在のベッドタウン化した沿線風景とは違っていた。沿線は人家もまばらな田園地帯。時々、水田のなかにぽかりと島のように古墳が浮かんで見える。商都・大阪のにぎわいとは異世界だった。それが実際の距離以上にこの地を遠くに感じさせた。
また、テレビやラジオで「標準語」を聞くことのない時代である。言葉も大阪の街中とはあきらかに違う。富田林駅で降り立つと「ケンカ腰」といった印象のある早口な河内弁があふれていた。他国に来たような印象を抱く者も多かっただろう。
キクノもまた河内弁を「母語」として育った。この後、彼女は幼くしてまったく違う言語を話す環境で暮らすことになるのだが。外国語教育は7〜8歳頃からはじめるのが最良だといわれる。
「母語」の基礎ができあがれば、できるだけ早い時期に外国語に触れさせる。それがネイティヴ級の表現力や鋭い言語感覚を育むことにつながるという。
最近は、バイリンガル教育に熱心な家庭も多い。彼女の場合は、家庭の事情によってそうせねばならぬ状況に追いやられた。ここでも、不幸が後々の糧になっている。