夫死去「私の預金だとお葬式できない」向かった先は…
「当行では、150万円までであれば寺田様にお支払できます」
かいこう銀行鶴岡駅前支店の窓口担当の行員の言葉に寺田愛子は安堵の表情を浮かべた。
「助かります。主人が亡くなってしまったものだから。私の預金だけだとお葬式もできないかもしれないと思っていたので」
「以前は、預金は相続人全員のご同意がない限り払戻しに応じておりませんでしたが、法律の改正があって、相続人は遺産分割協議が成立する前でも、裁判所の判断を経ることなく、一定の範囲で預貯金を払い戻すことができるようになりました。当行では、900万円の普通預金と300万円の定期預金をお預かりしていますが、本件では、150万円までお支払いします。今後、150万円を超えて必要な場合は家庭裁判所にご相談ください」
夫の寺田信太郎は、生前、自身が所有する畑で、みかんを収穫し、農協に出荷する果実業を営んでいた。
信太郎は、高血圧と糖尿病の持病を有し、60歳の頃から体調を崩しがちであったが、70歳の時、脳梗塞となり、それを機に、家業を二男祐人に任せるようになった。82歳の時に転倒し、股関節を骨折し、以後、要介護5の状況の下、自宅で生活していたが、かぜをこじらせて肺炎となり、救急車で病院に運ばれたものの、わずか1週間で亡くなってしまった。
愛子は、手持ちのお金が少ないため、今後の手続につき、市役所の法律相談に行ったところ、今回の払戻し制度を教示され、今日、銀行まで赴いたのだ。
愛子は、これで何とかお葬式があげられるとの安心感から、二男の寺田祐人から相談するよう言われていた貸金庫の手続について、尋ねることをすっかり忘れて銀行を後にした。
解説:「150万円までであればお支払できます」
ポイント:150万円の枠組み
同一の金融機関から払戻しを受けることができる上限額の150万円については、同額に満つるまで、どの口座からいくらの払戻しを得るかは、請求する相続人の判断に委ねられます。
本件では、かいこう銀行に、普通預金と定期預金の2本がありますので、愛子さんが、普通預金から100万円を、そして定期預金から50万円の払戻しを求めるということもできます。
本件では、900万円の普通預金がありますので、愛子さんは、普通預金からその上限額である150万円の払戻しを受けています。実務では、定期預金から払戻しを受けると金利の計算が複雑になりますので、一般的には普通預金から払戻しを受けることが多いと思われます。
父の葬儀は無事執り行われた。でも長男は面白くなく…
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信太郎の葬儀は、親族と近所の多くの人で営まれたが、長男の寺田真人は、葬儀の手伝いをしたのに近所の人が母の愛子や二男の祐人にばかり挨拶をするのを見て面白くなかった。
真人は、葬儀後、キウイ畑に立ち寄り、畑を見渡した。木にはまだ実がなっていなかったが、毎年、収穫時には、茶色の実を付ける。
信太郎は、以前から農業を営んでいたが、愛子と結婚してからは、みかんの栽培を中心に行っていた。そして、信太郎と愛子は、長男である真人、二男の祐人、三男の隼人をもうけた。
真人は、大学卒業後は、建築メーカーに勤めていた。
祐人は、高校卒業後、鉄道会社に就職したが、仕事をしながらも、農業の手伝いをしていた。そして、結婚し、信太郎らと同居していた時期もあったが、数年で離婚した。祐人は、会社を退職してからは、本格的に農業を手伝うようになり、キウイの栽培を発案するなどしてみかんとキウイの果実業を主に運営していた。
隼人一家も繁忙期に少し手伝いもしたが、隼人の妻の亜季が10年ほど前からは、高齢になった信太郎の身の回りの世話をしていた。そんな中、6年前に隼人が亡くなった。
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信太郎が所有する畑は、坂道が多い開港市の中で、国道に面した平坦な場所に多くあった。
「そろそろ廃業なんだろうな。開港市で農業なんて、ある意味時代遅れだからな。いっそのこと宅地にして売却すれば…」
真人は考えるのをやめた。さすがに不謹慎だよな。
賃貸物件を転々としていた転勤族の真人にとって、退職後の持ち家は家族の悲願でもあった。
妻の万里子と娘の遥香からは、早く自分の家に住みたいと言われていた。それでも、娘の遥香が地元の名門である開港薬科大学の薬学部に入学したこともあって、住宅資金もなかなか貯めることができなかった。
自分は長男だし、やっと自分にもチャンスがめぐってきたのだ。目の前に広がるキウイ畑を見てそう思った。
【続く】
<改正法Q&A> Q. 預貯金の払戻し制度とは?
A.改正法は、共同相続人の各種の小口の資金需要に迅速に対応することを可能とするため、各共同相続人が、遺産分割前に、裁判所の判断を経ることなく、遺産に属する預貯金債権の一部については、単独でその権利を行使できることとしました(民909条の2前段)。
そして、単独で権利を行使できる額としては、各預貯金債権の額の3分の1に払戻しを求める共同相続人の法定相続分を乗じた額としています。なお、同一の金融機関に対して権利行使をすることができる金額については、150万円を上限額と定めています(平成30年法務省令第29号)。
行員は、改正法の預貯金の払戻し制度を説明しています。なお、金融機関においては、例外的に便宜払いを認めることもあるようです(家判9号「座談会大法廷決定をめぐって」36頁)。
片岡 武
千葉法律事務所 弁護士(元東京家庭裁判所部総括判事)
細井 仁
静岡家庭裁判所次席書記官
飯野 治彦
横浜家庭裁判所次席家庭裁判所調査官