有名なセレブも大好きな「レトルトカレー」
能力的には、まったくの自立です。朝起きると、そそくさとベッドからはい出し、洗面台までスムーズに歩き、顔を洗い、歯を磨きます。その後、着替えをした後、化粧を念入りに行ないます。下地の美容液からはじまり、ファンデーションで仕上げる念の入れようです。もちろん、真っ赤な口紅も忘れません。これは、家族の同意を得て、内緒でこっそり彼女の朝の様子を職員が確認しています。
その後、ベッドに戻り、ここから何もできない人に変わります。「喉が渇いたから水を飲ませてほしい」からはじまり、「歩けないので食事は居室で食べたい」「トイレに連れて行ってほしい」「食事に行くなら車椅子を用意してほしい」などなど。ひどい時には、5分おきにナースコールが鳴り、職員が居室に顔を出すことを求めてきます。「自分でできることは自分でやってください」と言えば「薄情だね」の決まり文句です。さらに、若い男性職員を見つけると、決まって着替えを注文します。新入職の若い男性職員などは、いい“かも”です。弱々しい声で、着替えを懇願し、裸になったらタオルで体を乾布摩擦の要領でこすらせるのが一番の楽しみです。
「ここの食事は不味くて食べられたものではないよ」。そう言って、ホームの食事は入居初日から、すべて拒否しています。長男に電話でホームでの食事の惨状を訴え、有名百貨店に入店しているてんぷらや鰻を買ってこさせます。「毎日毎日、これじゃあ、自分は仕事にならない。食べたくなければ食べずに餓死すればいいんだ」と、長男が憤りを介護職員と共有します。
介護職員らも毎日毎日、有名百貨店に食事を買いに行くことはできません。そんなある日、ある職員が「長年、贅沢なものを食べてきた人は、意外としょうもないジャンクフードが好きなのでは? たしか、有名なセレブも某メーカーのレトルトカレーが大好物で、毎日食べているって何かで見たことがあるわ」と言いました。念のため、長男に確認しましたが、Fさんが自宅でレトルトカレーを食べていたという記憶はないと言います。物は試しに1回挑戦してみようということになり、近くのスーパーでレトルトカレーを買って夕食に出してみることにしました。
結論はと言うと、もうバッチリでした。下膳をしに行った職員を捕まえて「今日のカレーはおいしかったね。どこのカレーだい。こんなおいしいカレーなら毎日食べたいね」と言って上機嫌だったと言います。それから毎日、夕食はカレーです。毎日毎日、朝食や昼食は、一口、二口食べるだけで残すのですが、夕食のカレーだけはなぜか完食します。
数カ月後、ある職員が無意識の中で「違うメーカーのカレーを出したら食べるのだろうか」という禁断の発言をしました。これは、全職員が心の中に持っていた意見ですが、万一、不味いということになり、カレー自体を食べなくなったら、ということを考えた場合、とてもとてもチャレンジする勇気が湧いてくるものではありません。というわけで、このチャレンジはお蔵入りになり、同一メーカーのレトルトカレーをFさんは食べ続けています。
小嶋 勝利
株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役
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