「私にとって人生最後のオリンピックなの」
夜勤帯で一通りの業務が落ち着いた10時頃、私は居室を訪問しました。彼女は、ベッドに横になりながら本を読んでいました。「少しだけいいですか?」と言って私は話しかけます。彼女はベッドから起き上がると私を椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛け直します。私は看護師からの指示を伝えました。彼女は笑顔で私の話を頷きながら聞いています。そして、私の話が終わると「ちょっと、箪笥の上にある箱を取ってくださる? 大きな黒い箱よ」と言って洋服ダンスと天井の隙間にある箱を指さしました。
私がその箱をテーブルの上に下ろすと、その箱の蓋には“旅だちの仕度”と記してあります。蓋を取ると、中には大きな帽子と真っ赤なドレス、同じく赤い靴が入っています。「旅行に行く計画があるのですか? まさか、オリンピックを見に行こうとしているのですか?」と尋ねると、首を横に振りながら次のように話を始めました。「私が死んだら、この箱にある洋服を着せてね。帽子をかぶせ、靴も忘れずにお願いね。いい機会だから、あなたにお願いしておくわ」と。
話は続きます。「このオリンピックは、私にとって人生最後のオリンピックなの。あなたにとっては、次のオリンピックも当たり前にあると思うけど、私には、もう次はないの。だから、人生最後のオリンピックで日本が活躍している姿を目に焼き付けておきたいのよ。看護師さんが私のことを心配してくださることは、本当にうれしいのよ。ありがとう。でもね、私は最後のオリンピックを選手と同じ時間を共有し応援したいの」。
さらに、話は続きます。「もし、私が夜中にテレビを見ていることで万一のことがあっても、ホームには迷惑をかけないように、息子たちには言っておくから。ホームの注意を聞かず、私が勝手に自分で判断して夜更かししているんだってことを」と言って私を凝視しています。まるで、その眼には、自分がいつ死ぬのかを予見しているようでした。
私は、次の日の朝の申し送りで、一部始終を説明しました。ホーム長をはじめ参加している介護職員からは「Mさんの好きなようにしてもらおう」という声が上がりました。看護師も容認してくれましたが、そこは健康管理の責任者です。どうしても健康管理にこだわり、最後まで抵抗、夜勤帯で0時に必ず血圧を測り、異常値を示したら休むことと、朝食は欠食になるが昼食は必ず食べること、Mさん以外の入居者には、引き続き夜更かし厳禁を条件に、彼女のテレビ観戦は解禁になりました。