食事介助で介護の本質に触れることができる
話が少しそれますが、お正月に箱根駅伝を見ていると、たまに脱水症状などのハプニングで選手の足が止まり、見るからに身体に異変が生じているのを目撃することがあります。遠くからじわりじわりと、監督やコーチが選手に近づいていきます。しかし、選手は手を貸さないでほしいという素振りを見せ、監督やコーチも選手の状況を見極めながら慎重に選手との距離を縮めていきます。これは、選手の身体に監督たちが触れた場合、その選手は棄権になり、チームのレースが終わってしまうからにほかなりません。
その後の選手の気持ちや人生を考えた場合、教育者でもある監督は、おいそれと棄権させるわけにはいかないという思いがあります。その一方で、無理をさせて万一のことがあってはならない、という気持ちもあります。それらの気持ちの〝せめぎあい〟の中で、どう動いたらいいか、自ら瞬時に決断をしているのです。その監督の気持ちがテレビ越しにも伝わってくる気がします。だから、その決断は正しいと、われわれは信じて疑う余地がないのだと思います。
食事は職員に介助してもらいながら安楽に食べる。いやそうではなく、私は指の先が動かなくなるまで、どんなに無様な格好でも自力で食べたい。いったいどちらが正しいのでしょうか?実は、私にもわかりません。
私は食事の介助を介護現場でしたことは多々ありますが、自分の食事を人に介助してもらったことは、成人になってからは一度もありません。
そこで私が言えることは一つ。介護職員にとって、高齢者の食事介助をするということは、その人の命を支配するということです。それは多くの介護職員にとって実に神聖なものであり、慈しみの気持ちが湧き出てくる素晴らしい業務だと思っています。
介護職員の多くは、食事介助という業務を通して、介護の本質に触れることができます。その時、今自分は、目の前にいる高齢者の命を預かっているのだと、感じるのです。
無防備で、職員の介助に従って、口から喉を通して胃袋に食物を流し込んでいるだけの高齢者が、そこにはいるのです。その様子を見ながら、今日の自分の行動を反省し、明日の自分の介護に対する気持ちを整理すること。介護職員にとって、食事介助という素晴らしい仕事を神様は用意してくれたのだと、思っています。
これを機会に、読者の皆さんも、ご自身や両親などの介護方針について、考える時間をぜひ持ってほしいと思います。
小嶋 勝利
株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役