「コロナで一致団結」という同調圧力
英国を思い出してほしい。最初の方針には多数の異論が出て、批判が出た。日本であれば「みんな頑張ってるのに、ここは一致団結なのに、批判とかしてる場合じゃないだろ」と同調圧力がかかったであろう。そして英国は間違え続け、国民は多大な被害を受けたかもしれない。幸いにして英国は同調圧力の国ではなく、批判、議論は「前提」として受け入れられていた。異論が発生することを「現場を混乱させる」という理由で否定しなかった。そもそも異論が現場を混乱させるなどということは、プロの世界ではあってはならないのだ。
哲学者の鷲田清一先生は、コミュニケーションとは対話が終わったときに自分が変わる覚悟を持っている、そういう覚悟のもとで行われるもののことである、と述べている。日本におけるコミュニケーションの様相はそうではない。同調圧力に抗うのは「コミュ障」である。異論を唱えるのは「コミュ障」である。深夜に行われる討論番組で、参加者が番組の終わりに「おれ、意見を変えたよ」ということは起きない。彼らは議論をしているのではない。演説を繰り返しているだけなのである。だから、自説は一ミリも変わらない。本当に「コミュ障」なのはこうした同調圧力の奴隷なのではなかろうか。
弁証法とは時代がかった言葉だが、dialectics、対話という意味である。対話を通して自分が変わる覚悟ができて、初めて対話である。そこでアウフヘーベンが起き、議論は前進する。しかし、こうした古びたヘーゲル、マルクスの議論も日本では「形式」としてしか伝承されなかった。異論を唱えることそれ自体が「コミュ障」とみなされるのは、そのためである。
感染症の正体、微生物の正体。そうした哲学的議論は観念的議論ではなく、我々の今、ここの実生活に密着するリアルな議論である。が、日本社会はそもそも議論を許さない。あるのは「あちら」の側につくか、「こちら」の側につくかの党派的、属人的な足の引っ張り合いだけだ。「一貫性」はその属人性における一貫に過ぎず、要するに政府や厚労省の肩を持ちつづけるか、けなしつづけるか、という低いレベルでの一貫性でしかない。朝まで討論しても意見が変わらないのは当然だ。
本連載がそういう足の引っ張り合いを「バカバカしい」と悟る一助となれば、それだけで本連載が存在した価値はあると思っている。「感染症は実在しない」という命題に、「ばっかじゃない」と苦笑するか、「なにそれ ? 知りたい。教えて教えて」と自分が変わる奇貨とするかは、読者の「変わる覚悟」次第である。
岩田 健太郎
神戸大学医学研究科感染症内科 教授