どこの街に住むかの選択は、仕事やプライベートに大きな影響を与える。さらに家賃が家計支出の大きなウェイトを占めることを考えると、居住地は資産形成までも左右するといえる。総合的に考えて住みやすい街はどこなのだろうか? 20代後半から30代前半の単身会社員の住み心地を考えていこう。今回取り上げるのは、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄大江戸線「清澄白河」。

典型的な下町が「アート」と「コーヒー」の街に変貌

「清澄白河」は東京都江東区に位置する、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄大江戸線の接続駅です。1日の乗降客数はメトロ駅が5.8万人、都営駅が4.2万人ほど。開業は都営駅が2000年、メトロ駅が2003年と、23区内の駅でも新しい駅です。

 

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駅は清洲橋通りと清澄通りが交差する地点にあり、清澄通りの西側が清澄、東側が白河となります。この辺りは「深川」と呼ばれていた地域で、戦後に城東区と合併して江東区となるまで、深川区でした。

 

都営大江戸線
都営大江戸線

 

深川という地名は、江戸時代の初期、今の大阪府から移住してきた深川八郎右衛門が開拓を始めたことに由来します。もともとこの一帯は干潟で、「清澄白河」駅の北側を東西に流れる小名木川あたりが海岸線でした。

 

干潟を埋め立てるなか、1629年に誕生した漁師町のひとつは、開拓者の名前から弥兵衛町と呼ばれましたが、江戸時代の中期には清住町と改称されます。この清住は、弥兵衛の名字と考えられています。そして昭和時代に入ってから「清澄」と漢字が変わったのです。

 

一方、白河という地名は、寛政の改革を成し遂げた老中、白河藩主・松平定信にちなんだもの。1932年に駅から徒歩1分の霊巌寺周辺に新しい町名を付ける際、「白河町」との名称になりました。霊巌寺には松平定信の墓地があります。

 

また駅から南に行くこと8分の「採茶庵跡」は、松尾芭蕉が「おくのほそ道」へ旅立つ直前に住んでいたところ。芭蕉はその横を流れる仙台堀川から船に乗り、出発したといわれています。「清澄白河」周辺には、ほかにも、芭蕉が住んだ草庵、芭蕉庵があった跡に祀られた「芭蕉稲荷神社」や、芭蕉がたびたび訪れたという「臨川寺」など、松尾芭蕉にまつわるスポットが点在。駅から徒歩5分「芭蕉庵史跡展望庭園」にある芭蕉像は「夕方5時になると座り直す」という都市伝説も。その真相は、実際に目で確かめてみてはどうでしょうか。

 

そんな清澄白河は、江戸時代、物流の拠点として栄えました。明治時代以降も、物流拠点の機能はそのままに、運河沿いの蔵は倉庫へと姿を変えていきます。そして戦後は、住宅と小さな町工場が混在する、典型的な下町としての様相を呈していきました。

 

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