「先輩、社長、お客様」…先を行く人たちとの出会い
私は、志を見いだすということは、チャンスを目の前に降らせることだと考えています。
誰しもがチャンスを欲しています。そして、チャンスをつかむ力も持っています。しかし、チャンスを目に前に降らせられる人と、降らせられない人がいます。人生で飛躍できる人と、そうでない人の違いはここにあります。チャンスは、平等に与えられるものではないのです。
自分のことを「運がいい」と感じ、目の前に素敵な人や状況がよく現れ、ステージが年々上がっていくように思える人は、チャンスを降らせる力のある人です。逆に、自分の人生を変えるような人との出会いがない。もしくは、出会いがあってもそれを活かせない人と思う人は、チャンスを降らせる力が欠けているのです。
若くして、チャンスを降らせる力を持つ=志を見いだせる人には、共通した特徴があります。私も、若いときからチャンスが目の前に降ってくる人間であったと思っているのですが、これにも、それなりの理由があるのです。
1つは、本連載のメインテーマと言える、「出会い」です。
チャンスを降らせてくれる、すなわちチャンスを与えてくれる人は、「自分よりも先を行く人」です。極端ですが、大学生が幼児や小学生からチャンスをもらえる可能性は、ほぼないわけです。
就職活動に成功して、「会社に入社できる」というのも、チャンスをもらったということです。入社できなかった人は、「その会社で仕事をする」というチャンスをもらえなかったわけです。そして当たり前ですが、就活の採用を決めるのも、その会社の経営者や人事担当者という、社会人としてのキャリアが上の人たちです。
先輩、社長、お客様など、お金やモノや経験、アイデアや人脈など、自分は持っていないものを持っている、先を行く人たちに出会うことで、チャンスをもらえる可能性が生まれるのです。
もう1つが、「信頼」です。チャンスは欲するだけでは手に入りません。少し、考えてみてください。もしも、あなたがチャンスを与えられる側だとしたら、どんな人にチャンスを与えたいですか?
すなわち、人よりもお金やモノや経験、アイディアや人脈をもっているとしたら、どんな人であれば、あなたの持っている大事なお金を与え、人脈を紹介し、アイディアを提供したいと思うでしょうか? 私なら、信頼できる人にそうしたいです。
もしも余命3日と告げられたら、誰に社長を任せるか?
チャンスを与える側から見ると、「信頼できる人」とは、チャンスをものにできるだけの行動がとれる人、とれそうだと思わせる人です。そして、その感覚は、一朝一夕で与えられるものではありません。普段の生き方や働き方が積み重なったものから、周囲が感じ取っているものです。
もし仮に、私が余命3日と告げられたら、レガシードの経営権などは、これまで職場で一番、私と同じくらいの責任感で仕事に打ち込み、実績を出してきた者に与えます。余命3日と知ってから、「是非、私に社長を任せてください!」と、出しゃばる者に与えることはありません。そこから頑張っても、もう遅いのです。
つまり、先行者たちが「チャンスを与えよう」と思う前に、「このチャンスをあげるとしたら誰にしようか」という検討の答えは、ほとんど出てしまっているのです。ですから、チャンスをつかむには、その種が生まれる前に、自分の目の前に降らせる生き方や、働き方をしているかが肝心なのです。
以前、私がやっていた研修講師の仕事を、誰かに引き継ごうと考えていたとき、次の講師にしようと思っていた部下のH君に、あるセッションを事前予告なく、やらせてみたことがあります。すると、彼は完璧にやり遂げました。
彼を賞賛し、なぜできたのかを尋ねてみると、毎日の行き帰りの電車で、私の研修の音声を聴き、『1冊目の就活本』という私の著作も6回読んだと言うのです。
これこそが、チャンスが降ってくる人の取り組みなのです。自分の時間を自分の成長に投資して、チャンスが見える前に、与えられるだけの準業をしていたのです。
H君は、セッションをこなせるだけの事前準備をしていたわけですが、ここで肝心なのは、その努力を知らない私が、「研修の一部を任せてみようかな」、すなわち、「チャンスをあげようかな」と思ったことです。
チャンスがもらえる人は、そう思わせるだけの影響力を持っています。日常の生き方が前向きで、成果をつくるための行動をとっていたから、私も彼を信頼し、任せることができたのです。
◆人からもらったチャンスが、志の種になる
H君のような行動ができるのは、彼に「やる気」があるからです。一見、志があるから、やる気があるように思われるかもしれません。もちろん、志がある人は、やる気もあるのですが、逆もまた真なり、とは限らないのです。
人から与えられたきっかけを、素直に興味とやる気を持って打ち込んでいたら、それが志になることもあります。つまりは、志は、誰かが与えてくれたチャンスから、生み出されることが多くある、ということです。
私の人生を振り返ってみても、これまでに「やりたい」と思ったことを辿ると、誰かがそれにつながる種を与えてくれていたことが分かります。
私は、父親が亡くなってから、しばらく家に引きこもっており、そのタイミングでやめてしまったのですが、ずっと野球をしていました。それも、父親がきっかけです。10代後半の私は書道に打ち込んでいたのですが、芸術に没頭し、感性を磨けたのも、引きこもっていた私を無理やり引っ張り出して、書道部の合宿に半ば拉致した(笑)恩師・曽我英丘さんがいたからです。
人事コンサルタントという職業に行きついたのも、心理学やカウンセリングを学んでいた母親の影響と、大学時代にゲーミングシミュレーションという学問を教えてくれた土谷茂久教授、大学生のときにキャンプで出会った青木仁志社長の導きがあったからです。
ただし、何かに出会った瞬間に、「これを志にして頑張りたい」とは思えないものです。出会ったものを追求していく過程で、志に昇華していくのです。
「やりたいことが分からない人」はどうすればいいか?
「やりたい」という言葉には、段階があります。第1段階の「やりたい」は「興味を持った」です。第2段階は、「できるようになりたい」です。第3段階は「極めたい」という卓越を目指す段階です。
誰かが必要としてくれる「NEEDS(ニーズ)」から興味が生まれ、認めてもらいたい、役に立ちたい、活躍したいという思いから、できるようになりたいという「VALUE(バリュー)」が高まります。そして、さらに認められたい、できるようになりたいと行動を繰り返していくうちに、もっと極めたい、心底やりたいという「WANTS(ウォンツ)」に行きつくのです。
[図表]のように、やりたくて、できていて、それが必要とされるレベルにある、3つの輪が全て満たされると、人はこの上なく幸せを感じるのです。
まだやりたいことが分からないという人は、目の前で必要とされていることに、とことん打ち込んで、できるレベルにしていくとよいでしょう。その過程で、やりたいことになっていくのです。何かをちょっとつまみ食いしたくらいでは、志になることはありません。
近藤 悦康
株式会社Legaseed 代表取締役