高校2年の夏、「母がもう危ない」との連絡が・・・
東京暮らしにも慣れてきた高校2年の夏、父から連絡が入りました。当時、学校の転勤で両親は徳之島に暮らしていました。内容は「母がもう危ない」とのこと。私は慌てて徳之島に向かいました。
しかし、母の死には立ち会えず、亡骸を目にするだけでした。
母が亡くなった原因は、子宮外妊娠で血管が破裂し出血多量が悪化したことでした。のちに医師になった私からすれば、腹部を開いて破れた血管を止血すればいいだけの、実に他愛もないオペで済む疾病です。
ところが、田舎のせいでオペの設備が整っていなかったのか、現地の医師が経験不足で原因を見抜けなかったか、オペを怖がったのか、今となってはまったく分かりませんが、結局そのまま放置されて死に至ったのです。
亡くなる直前に母が残した遺言
母は亡くなる直前に、父に遺言を残していました。
「こんなに苦しい思いをするのは私だけで十分。だから陽一郎さんをぜひ医者にして、ほかの方を助けてあげてください」
母の遺言は私の心を激しく揺さぶりました。そのとき私は「必ず医者になる」と決意しました。
その決意を胸に、医学部を目指すことにしました。
ところが、だからといって話はうまく進みません。苦手だった英語を克服しなければ、医学部を受験することができないのです。
その時代は、国立大学は一期校、二期校というレベル分けがなされていました。何といっても一期校に行きたかった私が下宿から通って学べる大学は、東京大学医学部と千葉大学医学部だけです。取ってつけたような英語の受験勉強では歯が立ちません。どうせ落ちるならと東京大学医学部を受験したのですが、想像どおり不合格。一浪の間に必死に英語を勉強し、翌年、無謀な東大受験を止めて千葉大学を受験しました。そして晴れて医学生となることができたのです。