一代で11の医療・介護施設の開業に成功した医師の軌跡から、事業拡大における極意を見ていく本連載。今回は、その第5回です。

ドラムを習いに音楽の専門学校へ

母の遺言があって、医学部に入学したのは確かですが、そこはまだ19、20歳の若造です。誰もが経験したことかもしれませんが、大学に入ったものの、生来主体性がないので思い起こせばひどい学生時代でした。叔母の家に居候していたせいで浪人時期はなかなか遊びに行く機会もありません。ところが、大学に入ってしまえばもうこっちのもの。

 

私の願望は一つ、「モテたい!」のみ。

 

大学で空手部にも一応入部していましたが、いちばん力を入れたのはバンド活動です。当時はベンチャーズやビートルズが流行していた時代であり、石原裕次郎がカッコよくドラムを叩いていたのを観ていた世代です。かといって、ピアノやギターなどは長年練習を積んできた連中には急仕立てで勝てないと思い、「叩いたら音が出るだろう」ぐらいに思ってドラムを叩くようになりました。

 

当時あった音楽の専門学校へ短期間ですがドラムを習いに行ったのです。そして大学でも比較的有名なジャズバンドに入りました。

 

セミプロ並みのメンバーもいたなかに混じり、東京のライブハウスで演奏してお小遣いを稼いだりもしました。まだスイングジャズが主流を占めていた時代ですから、フリージャズのバンドは新しいジャズとして引きがあり、当時新宿の伊勢丹裏のほうにあった新宿ピットイン(現在も営業する有名なライブハウス)で、演奏を聴いていたりもしました。

 

とある日、若いボーイさんみたいな青年がいたから声を掛けたら、のちに日本を代表するジャズマンとなる渡辺貞夫氏だったという驚くべきエピソードもあります。自分自身「医学部軽音楽科社会学専攻」と名乗っていたほどです。

 

授業は一応普通に受けていましたが、夜は新宿や銀座へ繰り出す、全然勉強しない医学生でした。テストもおそらくギリギリでクリアしていたのでしょう。天国の母に知られたら大目玉を食らっていたに違いありません。

時代は安保闘争、各大学でデモ、ストライキが・・・

またその時代は60年、70年安保闘争の頃に重なっており、日本全国のあちらこちらの大学でデモやストライキが行われていました。教授より学生のほうが強かった時代で、むしろ学生たるものストライキをしなければいけない、という風潮が蔓延していました。私はノンポリだったのですが、まだ若くて体力があり、面白そうなので、ヒマがあれば時々東京まで出て行き、東大や早稲田大などで「ワッショイワッショイ」と徒党を組んでデモに参加していました。

 

また千葉大でも教授を階段講堂に呼び出して、上のほうの席を陣取った学生たちが教授に対して抗議を繰り返していました。定期的に階段講堂で授業をボイコットしてストライキです。しかし学生自治会の執行部もある程度わきまえていて、卒業はきちんとしようと、テスト前にストライキをしてその間に勉強し、ストライキ明け後のテストはきちんと受けるという、タイミングを見計らったズルをしていたようです。

 

同時期に大学生活を過ごした方々なら、このような体験をしたはずです。こうした流れがのちにあさま山荘の連合赤軍事件につながるわけですが、私たちにはそこまでの思い入れはなく、時代の空気に流されていたという感じでした。

ドクター・プレジデント

ドクター・プレジデント

田畑 陽一郎

幻冬舎メディアコンサルティング

医療者である開業医が突き当たる「経営」の壁。 経営者としてはまったくの“素人”からスタートした著者は、透析治療を事業の柱に据えて、卓越した経営センスで法人を成長させていく。 徹底的なマーケティング、2年目で多院展…

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