畑や田んぼが広がる亀有の風景に落胆するも・・・
東京駅に着くと、電車を乗り換えて叔母の住む「亀有」へ。東京といえば銀座というイメージしかない私を乗せた電車の窓から見える風景が、どんどん華やかさを失っていきます。
当時の葛飾区亀有はまだ、見渡すと畑や田んぼが広がる土地でした。夢を抱いて上京した少年は、「話が違うじゃないか」とひどく落胆したのです。
私は叔母の嫁いだ亀有の松尾家に下宿することになりました。中学はちょっとした越境の裏技を使って、地元の亀有中学校ではなく、もう少しランクが上の立石中学校に転校しました。
3年の2学期から入った中学の最初のテストで、たまたまですが社会科で学年一番を取りました。
「何だ、東京とはいえ、大したことないんじゃないか」
自称「神童」はそう思ったのですが、エラそうに言っていたのはそこまで。その後、卒業までのテストで一番を取るどころか、後ろから数えたほうが早いほどのレベルの差があり、「天狗の鼻」は見事にへし折られてしまったのです。
「数学者」を目指していた高校時代
東京での中学生活はもうあっという間に終わりです。高校進学のための受験勉強をしなければいけません。当時は学区制で、地元の一番の進学校は両国高校だったのですが、成績で自信を失っていた私は安全策を取ってナンバーツーの墨田川高校を目指し、合格することができました。
経歴を書くときは、大学かまたは高校から書くことが多いので、墨田川高校卒となっているのはそのためです。だから東京出身と思われがちだったのです。
父の血を継いだためか、やはり理数系が得意で、大学は理系の分野を狙っていました。ただ、本当のことを言うと、特に数学と物理が得意だったため、当時は数学者になることを目指していました。また、私の周りの理系仲間の間では、東京大学よりも東京工業大学のほうが人気でした。理系の頂点というイメージがあったのでしょう。また受験の際の配点が数学と物理がそれぞれ200点に対して苦手な英語は100点という傾斜配点だったので、数学と物理ができればなんとかなりそうだと思い、私も友だちと同様、東工大を漠然と目指していました。