「契約してくれるまで、ここを動きませんよ」
前回の続きです。
「それもありますね! いやいや、さすがのご慧眼です。ますます須藤様に買っていただきたくなりました。いかがですか。あとからキャンセルすることもできますし、ひとまず申し込みをしておくほうが安心だと思います」
オレは迷った。確かにクーリングオフ制度があるから、ここで契約書にサインしたからといって、必ずしも買わなきゃいけないわけじゃない。ほかの人が買ってしまってから後悔するくらいなら、今ここで申し込んだほうがいいかもしれない。視線を感じて、オレは横に座る橘高を見た。目が合った橘高は、ほほえんで冗談っぽく言った。
「契約してくれるまで、ここを動きませんよ」
確かに、前方をテーブル、右側を壁、背後を背もたれにさえぎられたファミレスのボックス席では、左側に陣取る橘高がどいてくれなければ、トイレにすら行くことができない。こんな人目のあるところで監禁もないだろうから、冗談は冗談なのだろうが、橘高の顔はどことなく本気っぽかった。それに、ちょっと気になったことがある。
「マンションというのは、1室だけなんですか?」
オレは座り直して、九門に聞き直した。
「マンションというのは、1室だけなんですか? 1棟全部が自分のものになると思っていました」
「東京で、鉄筋コンクリートのマンションを1棟となると、やはり何十億円といった価格になってしまうんです。天下のジャパソニックの社員さんといっても、そこまでは銀行が貸してくれないんですよ。
だから、1室ずつの分割販売になるのですが、逆に言えば、何十億円もするデザイナーズ・マンションの1室が、頭金がなくても手に入るのですから、いい買い物だと、本当に心から思っているんです。そうじゃなければ、お客様に勧められませんから」
いつのまにか九門は、契約書っぽい書類を取り出していた。