「これからは夫婦でゆっくり」元部長が待ちわびた定年後の生活
60歳の隆之さん(仮名)は、3ヵ月前に長年勤めた会社を定年退職しました。営業部門の部長として、多くの部下をまとめてきました。
妻の千恵さん(58歳・仮名)は、週3日ほどパートで働いています。子ども2人はすでに独立し、現在は夫婦2人暮らしです。
「現役時代は帰宅が遅く、休日も仕事のことばかり考えていました。退職したら、妻と旅行でもしながらのんびり暮らしたいと思っていたんです」
住宅ローンは完済済み。退職金とそれまでの貯蓄もあり、当面は再就職せずに過ごすつもりでした。
ところが退職後の生活は、隆之さんが想像していたものとは少し違っていました。
朝は妻と一緒に起き、朝食を食べたあと、リビングで新聞を読んだりテレビを見たりして過ごします。昼食も夕食も自宅で食べるようになり、千恵さんと顔を合わせる時間は大幅に増えました。
「最初は、これが定年後の生活なんだなと思っていました。妻も喜んでくれていると思っていたんです」
隆之さんは、家事をまったくしないわけではありません。ゴミ出しや食後の片づけを手伝うこともありました。
ただ、長年の習慣から、家のことは妻が中心になって進めるものだと考えていたそうです。
昼食の時間になると「今日は何を食べる?」と尋ね、洗濯物がたまっていると「そろそろ洗ったほうがいいんじゃないか」と声をかけることもありました。
「別に命令していたつもりはありません。会社でも、気づいたことはその場で伝える習慣があったので……」
一方、千恵さんには退職前から続けてきた生活のリズムがありました。
夫が出勤したあとは家事を済ませ、パートのない日は友人と会ったり、趣味の手芸を楽しんだりしていたのです。
しかし、隆之さんが家にいるようになると、昼食の準備が毎日必要になり、外出する際にも「どこへ行くの?」「何時に帰る?」と聞かれるようになりました。
ある日、千恵さんが友人との昼食に出かけようとすると、隆之さんは何気なく言いました。
「俺の昼飯はどうするの?」
千恵さんは「冷蔵庫にあるもので食べて」と答えましたが、その表情は険しくなっていました。
数日後、夫婦で昼食を取っていたときのことです。隆之さんが「明日は何をする予定?」と尋ねると、千恵さんは箸を置き、静かに言いました。
「あなたが家にいると、息が詰まるの」
