生前と死後、それぞれに備える必要があった
Sさん夫妻の状況から、今後検討すべき課題を大きく3つに整理しました。
課題1 判断能力が低下したあとの財産管理
まず備えておく必要があるのが、夫の判断能力が低下した場合の財産管理です。パーキンソン病がさらに進行し、本人による意思表示や手続きが難しくなれば、預金の管理や施設費、医療費などの支払いに支障が生じる可能性があります。
Sさんは「家族信託を使うことはできないでしょうか」と考えていました。
しかし、現在の夫の資産は預貯金が中心で、不動産についてはすでに整理されています。そのため、家族信託が本当に最適なのかを含めて検討する必要がありました。
課題2 亡くなったあとの相続手続きをどう円滑にするか
もう1つは、夫が亡くなったあとの相続手続きです。
金融機関が本人の死亡を把握すると、原則としてその口座から自由に預金を引き出すことはできなくなります。また、遺言書がない場合、遺産の分け方によっては相続人全員による遺産分割協議が必要になります。
今回、相続人には妻と娘だけでなく婚外子も含まれるため、相続発生後になって初めて手続きを始めるのでは、預貯金の解約や名義変更などが円滑に進まない可能性がありました。
課題3 婚外子を含む相続関係を整理しておく
夫は認知している婚外子がおり、養育費についてはすでに整理しています。また、過去には相続に関する覚書も作成していました。しかし、それだけで将来の相続手続きがすべて完結するわけではありません。
遺言書がなければ、遺産分割の際に婚外子を含めた相続人との調整が必要になる可能性があります。
そこで、現在の家族関係や資産状況に合わせ、公正証書遺言をあらためて作成しておくことが重要だと考えました。
家族信託ではなく「任意後見契約」を選んだ理由
Sさんからは、認知症対策として家族信託を利用できないかという質問がありました。家族信託とは、自分の財産の管理や処分を、信頼できる家族などに託す仕組みです。不動産の管理や売却を将来にわたって家族に任せたい場合などに活用されます。
一方、今回、夫名義の不動産はすでに整理されており、主な財産は預貯金です。
そのため、契約や信託財産の管理などが必要になる家族信託をあえて利用するよりも、将来、本人の判断能力が低下した場合に備えて「任意後見契約」を結んでおくほうが、Sさん夫妻の状況には適していると考えました。
任意後見制度では、本人に十分な判断能力があるうちに、将来、自分の財産管理や生活に関する手続きを任せる相手をあらかじめ決めておくことができます。
その後、本人の判断能力が低下した場合、家庭裁判所に任意後見監督人の選任を申し立て、その選任によって任意後見契約の効力が生じます。
今回は、日常的に夫を支えているSさんを任意後見人として契約しておく方向で進めることにしました。
娘にはできるだけ負担をかけず、夫婦の財産管理はまずSさんが担える体制を整えておくことにしたのです。
公正証書遺言を作り直し、妻を遺言執行者に
生前の財産管理については任意後見契約で備える一方、亡くなったあとの手続きについては公正証書遺言を活用します。
夫は十数年前にも遺言書を作成していましたが、その後、不動産の売却や住み替えを行い、財産状況は大きく変わっています。
そこで、現在の資産や家族関係に合わせ、内容を全面的に見直した公正証書遺言を作成することにしました。
遺言では、妻であるSさんを遺言執行者に指定します。遺言執行者には、遺言の内容を実現するために必要な手続きを行う権限があります。適切な内容の遺言を準備しておくことで、相続発生後に相続人全員の署名や押印を一から集める負担を減らし、預貯金などの相続手続きを進めやすくすることができます。
また、婚外子がいることや、過去に養育費を一括精算した経緯なども確認したうえで、遺留分にも配慮した内容を検討しました。
「遺言」と「任意後見」を同時に準備
Sさん夫妻にも提案内容を説明し、具体的な手続きを進めることになりました。夫は現時点では公証役場へ出向くことができるため、公証役場と日程を調整し、公正証書遺言の作成と任意後見契約を同日に進められるよう準備しました。
公正証書遺言については本人の意思を確認する必要があるため、作成時にはSさんが一時的に席を外し、公証人が夫本人の意思を確認できるようにします。
一方、夫は体調の変動が大きく、再入院する可能性もあります。そのため、今後、公証役場まで出向くことが難しくなった場合に備え、公証人に自宅や病院へ出張してもらう方法についても案内しました。
Sさんからは、「これまでの不動産売却に続いて、夫と私のこれからのことまでまとめて任せられる。本当の安心料だと思ってお願いしたい」との言葉をいただきました。
「認知症対策=家族信託」とは限らない
近年、「認知症対策には家族信託」と耳にする機会が増えています。しかし、家族信託は決してすべての家庭に適している制度ではありません。
どの制度を利用するかは、本人がどのような財産を持っているのか、誰に管理を任せたいのか、将来どのような支出や手続きが想定されるのかなどによって変わります。
今回のように、不動産についてはすでに整理され、主要な財産が預貯金となっているケースでは、家族信託を組むことだけが選択肢ではありません。
Sさん夫妻の場合は、生前の財産管理には「任意後見契約」、亡くなったあとの財産承継には「公正証書遺言」と、それぞれの役割を分けて備える方法を選びました。また、進行性の病気がある場合には、「いつ準備するのか」も非常に重要です。
遺言や任意後見契約は、本人に内容を理解し、自分の意思を示すことができる段階で準備しておく必要があります。体調が悪化してから慌てて準備しようとしても、本人の判断能力によっては希望する手続きを取れなくなることがあります。
相続対策で大切なのは、流行している制度を選ぶことではありません。現在の資産構成や家族関係、本人の健康状態を確認し、「生前の財産管理」と「亡くなったあとの財産承継」の両方を見据えて、その家族に合った方法を組み合わせることです。
元気なうちに将来への道筋をつけておくことが、本人だけでなく、支える家族の安心にもつながります。
曽根 惠子
公認不動産コンサルティングマスター
相続対策専門士
相続実務士®
株式会社夢相続 代表取締役
「相続対策専門士」は問題解決の窓口となり、弁護士、税理士の業務につなげていく役割であり、業法に抵触する職務を担当することはありません。
