母が実家を手放したい本当の理由
数週間後、健一さんと母は改めて実家を見て回りました。
押し入れには何十年分もの布団や食器。父が趣味で集めていた釣り道具。子どもたちが使っていた学習机も、そのまま残っています。
「これ、全部どうするの?」
思わず尋ねると、文子さんは笑いました。
「だから元気なうちに片付けたいのよ」
もし何年も先送りすれば、自分一人では整理できなくなるかもしれない。庭も建物も傷み、子どもに大きな負担を残すかもしれない。
「私がいなくなってから、『これ全部どうしよう』って困らせたくないの」
母は静かにそう話しました。
内閣府『令和5年度 高齢者の住宅と生活環境に関する調査』によると、高齢者が住まいを選ぶ際に重視する条件として、医療・介護サービスへのアクセスや、買い物・交通の利便性を挙げる人が多くなっています。
健一さん自身も退職後、これからの暮らしを考え始めたばかりでした。夫婦で旅行へ行く計画を立てる一方、母の住み替えや実家の整理にも時間を使うことになります。
「正直、最初は『退職したばかりなのに』と思いました」
そう振り返る健一さんですが、今では考え方が変わりました。
「現役のころだったら、仕事を理由に話を先延ばしにしていたと思います。でも時間ができたからこそ、母と一緒に考えられたのかもしれません」
その後、文子さんは駅から徒歩圏内のコンパクトなマンションへの住み替えを決めました。
まだ引っ越しは終わっていません。売却の準備や荷物の整理には時間がかかり、思い出の品を前に手が止まる日もあります。
それでも最近、文子さんは以前より楽しそうに新居の間取りを眺めているそうです。
「ベランダで花を育てようかな」
そんな話をする母を見て、健一さんは少し安心したといいます。
親が長年暮らした家を手放す決断は、家族にとっても大きな出来事です。けれど、それは必ずしも「住み慣れた場所を失う」という意味だけではありません。年齢を重ねたからこそ、自分で選べるうちに暮らしを整えたいと考える人もいます。
退職直後に届いた一本の電話は、健一さんにとって母の老後だけでなく、自分自身のこれからの暮らしを見つめ直すきっかけにもなったのでした。
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