「母さん、どうして急に…」退職から3週間後に鳴った電話
「もしもし。家、売ろうと思うの」
退職してまだ3週間しか経っていなかった健一さん(仮名・65歳)は、思わず言葉を失いました。電話の相手は、一人暮らしを続ける母の文子さん(仮名・81歳)です。
「え? どうして急に?」
健一さんは定年まで40年以上、メーカーに勤めてきました。退職後は妻との旅行や家庭菜園を楽しみにしており、年金は夫婦で月約21万円。住宅ローンも完済し、「ようやく少しゆっくりできる」と考えていた矢先でした。
文子さんが暮らしているのは、夫と一緒に建てた築45年の一戸建てです。夫を亡くしてからも、「ここが一番落ち着く」と住み続けてきました。健一さんも、母が家を離れるとは一度も考えたことがありませんでした。
週末、実家を訪ねると、居間には古いアルバムや契約書が並べられていました。
「少しずつ片付けてたの」
文子さんはそう言って、父の工具箱を撫でました。
「お父さんが亡くなってから7年でしょう。最初は何も触れなかったけど、最近は、この家をどうするか考えるようになったのよ」
健一さんは「まだ元気じゃないか」と答えました。すると母は苦笑しながら言いました。
「元気だから考えられるのよ」
実家には2階の使われていない子ども部屋、納戸いっぱいの家具、庭には手入れの必要な植木があります。文子さんにとっては、掃除や庭の手入れ、雨どいの確認など、「家を維持すること」そのものが以前より大きな仕事になっていました。
厚生労働省『2024(令和6)年国民生活基礎調査』によると、65歳以上の人がいる世帯のうち、単独世帯は32.7%を占めています。高齢者の一人暮らしは現在では珍しい生活形態ではなく、住み慣れた自宅で暮らし続ける人も多くいます。
「一人で住めなくなったわけじゃないの。ただ、この先もずっと、この家全部を守れるかしらって思ったの」
文子さんは、近所に住む友人がマンションへ住み替えたことも話してくれました。
「駅に近いし、買い物も歩いて行けるって聞いてね。そういう選択もあるんだなと思ったのよ」
その日、健一さんは初めて母と一緒に不動産会社へ相談へ行く約束をしました。
退職後に始まると思っていた自分たち夫婦の新しい生活は、思いがけず「母のこれから」を考える時間から始まることになりました。
