「私、お母さんに戻ってたのね」5年目に変えた親子の暮らし
決定的だったのは、文子さんが74歳になった年でした。友人3人で2泊の温泉旅行を計画したときのことです。
日程を聞いた文子さんは、真っ先に健一さんの勤務予定を確認しました。
「その週、仕事忙しい?」
「普通だけど。なんで?」
「旅行に誘われてるんだけど、ご飯とかどうしようかなと思って」
健一さんは不思議そうな顔をしました。
「俺、46だよ。飯くらい自分でどうにかするよ」
言われてみれば当然です。
健一さんは毎日仕事へ行き、生活費も入れている大人です。それなのに文子さんのなかでは、いつの間にか「一緒に暮らす息子の世話をする」ことが日常になっていました。
「私、またお母さんに戻ってたのね」
そう言うと、健一さんは「頼んでないけどね」と笑いました。
文子さんはそこで初めて、5年前に思い描いていた「息子がいる安心」と、実際に送っている生活は別のものだったと気づきました。
息子が帰ってきたことで、確かに安心は増えています。
夜に一人ではないこと。家の不具合があれば相談できること。重い荷物を運んでもらえること。そうした助けは、一人暮らしのころにはありませんでした。
一方で、文子さん自身が息子のために夕食を作り、洗濯をし、予定まで合わせる必要があるわけではありません。
総務省『家計調査報告〔家計収支編〕2025年平均結果の概要』によると、65歳以上の単身無職世帯では、可処分所得が月平均11万8,465円、消費支出は14万8,445円です。平均では消費支出が可処分所得を約3万円上回っており、高齢期には預貯金を含めた家計管理も重要になります。
文子さんの場合、息子から月5万円を受け取ることで家計面の負担が増えたわけではありません。問題だったのは、お金よりも時間の使い方でした。
温泉旅行を境に、親子は暮らし方を少し変えました。
夕食を一緒に食べるのは週に数回。文子さんが出かける日は、健一さんが自分で用意します。洗濯もそれぞれで済ませることにしました。
すると文子さんは、以前のように友人との外出を楽しむようになりました。健一さんも「そのほうが俺も気楽」と言います。
子どもとの同居は、高齢の親にとって心強さにつながることがあります。しかし、同居しているからといって、親が成人した子どもの生活を支える役割まで再び引き受ける必要があるわけではありません。
長く別々に暮らしていた親子が再び同じ家で暮らすなら、昔の親子関係をそのまま再現するのではなく、それぞれが自分の生活を持つ大人同士として役割を決め直すことも必要でしょう。文子さんが5年かけて見直したのは、息子と暮らすことそのものではなく、「一緒に暮らすなら母親が世話をする」という、自分のなかに残っていた習慣でした。
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