「どうしてここにいるの?」玄関に置かれていた三つのバッグ
「これからは平日でも旅行に行けるな」
温泉旅館からの帰り道、和夫さん(仮名・65歳)は、妻の由美さん(仮名・65歳)にそう話しました。
和夫さんは1ヵ月前、再雇用先を退職したばかりです。夫婦の年金収入は月約25万円。住宅ローンを完済した戸建てで暮らし、預貯金も約2,400万円ありました。
派手な生活はできなくても、近場の旅行や外食を楽しみながら、二人で暮らしていけると考えていました。今回の2泊3日の温泉旅行も、長年働いた和夫さんへの退職祝いでした。
夕方、自宅へ着くと、玄関の照明がついています。
「消し忘れたのかしら」
由美さんが鍵を開けると、玄関には見覚えのない大きな旅行バッグが三つ並んでいました。リビングから出てきたのは、和夫さんの母・房子さん(仮名・85歳)です。
「お帰り。思ったより遅かったね」
「母さん、どうしてここにいるんだ?」
房子さんには、緊急時のために合鍵を渡していました。電車で約1時間半離れた町の戸建てで、15年前に夫を亡くしてから一人暮らしを続けています。
足腰は弱っていたものの、買い物や炊事は自分でできると聞いていました。和夫さんが月に一度訪ねても、房子さんは「まだ一人で大丈夫」と繰り返していたのです。
ところが、この日の房子さんは、当然のことのように言いました。
「今日からここに住ませて。もう一人では無理だから」
由美さんは返事ができませんでした。
詳しく聞くと、房子さんは数ヵ月前から転倒を繰り返し、買い物にも行けなくなっていました。冷蔵庫にはほとんど食材がなく、近所の知人に弁当を買ってきてもらうこともあったといいます。
それでも息子には話さず、和夫さん夫婦が旅行中であることを知ると、近所の人に荷物を運んでもらい、タクシーでやって来ました。
「相談してくれれば、方法を考えたのに」
和夫さんが言うと、房子さんは顔を伏せました。
「相談したら、まだ早いと言われると思ったの。でも部屋も余っているでしょう」
夫婦の家には、独立した子どもが使っていた部屋が二つあります。しかし空いている部屋があることと、高齢の親と生活できることは別の問題です。
食事、通院、入浴、見守りを誰が担うのか。和夫さんは運転免許を返納する時期を考えており、由美さんにも持病のある実母がいました。
総務省『家計調査報告(家計収支編)2025年平均結果』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯では、実収入が月25万4,395円、可処分所得が22万1,544円。年金月25万円は平均に近い水準ですが、親との同居によって食費や光熱費、住宅改修費などが増えれば、夫婦だけを前提にした老後設計は変わります。
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