「今日はやめておこう」売り場で戻す商品が増える日々
「お父さん、これ好きだったでしょう?」
娘の由佳さん(仮名・48歳)がスーパーでマグロの刺身を手に取ると、健一さん(仮名・76歳)はすぐに首を横に振りました。
「高いから、買わなくていいよ」
健一さんは3年前に妻を亡くし、現在は一人暮らし。会社員として長く働き、年金は月約20万円あります。
住宅ローンを完済したマンションに住んでいるため、由佳さんは父の生活に大きな心配はないと思っていました。しかし、その日、買い物かごに入っていたのは、食パン、うどん、豆腐、もやし、値引きされた総菜だけでした。
「魚は食べてるの?」
「缶詰なら、ときどき食べるよ。刺身はもう何年も買っていない」
健一さんは、以前は週末になると刺身を買い、晩酌をするのを楽しみにしていました。妻が元気だったころは、季節の魚を選び、二人で食卓を囲んだといいます。
ところが、妻の介護と葬儀で預貯金の多くを使い、現在残っているのは約500万円。年金だけを見れば余裕があるように思えても、管理費と修繕積立金に月約4万円、税金や社会保険料を差し引かれ、さらに光熱費、通信費、通院費がかかります。
築年数の経過したマンションでは、修繕積立金が数年前より上がりました。給湯器やエアコンの故障にも備えなければなりません。
「年金はこれ以上、大きく増えないでしょう。でも、毎月出ていくお金は少しずつ上がっている。だから、食べなくても困らないものからやめました」
最初に減らしたのは外食でした。次に酒をやめ、牛肉を豚肉へ、豚肉を鶏肉へ変更。刺身を買おうと売り場へ向かっても、表示された価格を見て棚へ戻すようになりました。
総務省『2020年基準 消費者物価指数 全国 2025年平均』によると、総合指数は前年比3.2%上昇しました。日々の買い物だけでなく、光熱費や各種サービスの価格変動も、収入が限られる年金生活者の家計に影響します。
「一つひとつは数十円、数百円の違いです。でも、全部合わせると、前と同じようには買えません」
そう話す健一さんにとって、刺身は単なる食品ではありませんでした。妻と過ごした週末を思い出す、ささやかな楽しみでもあったのです。
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