予想を裏切って誕生したイタリア出身の総裁
先に書いたように、ドイツが強くなったといっても、ユーロ圏の独裁者になるとか、「帝国」になるということではありません。このことについてはのちに詳しく書きますが、ここではECBの、イタリア出身のドラギ総裁が、第一次のギリシャ危機を鮮やかな手綱さばきで切り抜け、ドイツの中央銀行であるドイツ連邦銀行(連銀)、ブンデスバンクをあっと言わせたドラマを書いておきたいと思います。
ギリシャ危機のさなか、二〇一一年一一月、ECBの第三代総裁にマリオ・ドラギが選ばれました。初代総裁はオランダ人で、第二代はフランス人でそのあとですから、いよいよドイツ人総裁の登場かという下馬評がしきりでした。ドラギに決まった時は驚きの声があがりました。「この危機にイタリア人でいいの?」と、失礼ながらEUの政治・金融の世界で、イタリア人に対する信頼度は、一般的にいってあまり高くありません。
しかしここがEUという組織の面白いところです。ECBの最高決定機関である理事会は、国籍に関係なく選ばれる六人の常任理事と、すべてのユーロ加盟国の中央銀行総裁一九人によって構成されます。持ち票は全員各一票です。これではいかに経済運営に優れ、発言力の強いドイツでも、すべて思い通りに動かすわけにはいきません。ドイツ連銀もドラギの登場を抑えることはできませんでした。
イタリア金融界では、スーパー・マリオの呼び名で知られたドラギは就任と同時に行動を開始しました。一一年末に、ドイツ連銀の渋い顔をしり目に大胆な金融緩和にのりだし、政策金利を引き下げたのに続いて、およそ五〇〇〇億ユーロの三年の長期融資を、一%の超低金利で供給すると発表しました。流動性不足に喘いでいた金融界は大いに歓迎し、活気づきました。スーパー・マリオは翌一二年二月にも再び同じ条件の五〇〇〇億ユーロの融資を発表しました。総計一兆ユーロ、およそ一三〇兆円の金融緩和です。金利一%の資金があれば、金利が高騰している国債を買って、なんの苦もなく利ザヤを稼ぐこともできます。国債市場の危機は徐々に鎮静化に向かいました。
ゴールドマン・サックス時代に培った市場との対話力
ドラギ・マジックはもう一度、その威力を発揮します。二〇一二年七月二六日、ドラギはオリンピックに沸くロンドンで金融関係者を前にスピーチをし、「ECBはユーロを守るためには、いかなることでもやる用意がある」と発言しました。EUの債務国の国債に対する投機には、無制限の買い取りで対抗するという強い意志が読み取れました。マーケットがほぼ完全に鎮静化したのを見て、英誌「The Economist」は、これでギリシャ危機は終わったと書きました。スーパー・マリオの評価は急上昇しました。注1
ドラギはヨーロッパ金融界のいくつかの要職についたあと、アメリカの投資銀行ゴールドマン・サックスの副会長を四年間務めました。続いて〇六年からはイタリア中央銀行総裁に任命されました。ヨーロッパではあまり見られない経歴の持ち主です。マーケットとの対話を巧みにこなしたのは、ゴールドマン・サックスにいた経験がものをいったのだという話がもっぱらです。ECBはドイツ連銀そのものだと決め込んでいると、ドラギのような人物が突然出てきて面食らうことになります。EUでは予想外の国に、予想外の人物がいて、予想外の仕事をこなすというケースがしばしば見られます。
対外交渉をする場合でも、EUが一つにまとまっているのか、バラバラなのかよくわからなくて、困惑する場面も少なくありません。EUを取材していて、日本人記者仲間と、EUは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)だという話になりました。フランスと闘っているつもりが、突然ドイツが出てきたり、スペインが出てきたりするので、頭が八つあるオロチと戦っているかのようなのです。乱世を行くEUは、したたかな生き物です。そして、変わり身が自由自在な、簡単には消滅することのない、歴史上存在した例のない国家連合体なのです。
ドラギ・マジックについては、本書(『ユーロは絶対に崩壊しない』幻冬舎ルネサンス新書)の第二章でも取り上げます。ドラギの個人技というだけではなく、この問題は中央銀行の役割やEU条約の政府間の資金の移動を禁じる原則にも関わる重要な意味をもっています。
注1 John Peet and Anton La Guardia :Unhappy Union. The Economist :68, 2014.