前回は、時に覇権主義と批判されることもある「強いドイツ」と、その他のEU諸国との関係を見てみました。今回は、普仏戦争からドイツの統一までの歴史を、鉄血宰相ビスマルクの活躍を中心に概観します。

普仏戦争を勝利に導いたビスマルク

神聖ローマ帝国からドイツ帝国にいたる時代に、「鉄血宰相」と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクは議会を無視する鉄腕政治でドイツ統一国家をつくり上げました。しかし一時期、ドイツ帝国を支配したビスマルクの外交力にも、思わぬ落とし穴があり、名声は尻つぼみになりました。

 

プロイセンのウィルヘルム一世国王が、ユンカーと呼ばれた領主貴族のビスマルクを首相に任命したのが一八六二年です。ビスマルクは戦争と外交の力で勢力の拡大をはかります。七〇年、ビスマルクはドイツの強大化を警戒するフランス皇帝ナポレオン三世を巧みに戦争に誘い込み、普仏戦争が始まります。ドイツ軍はフランス領に攻め込み、セダンでナポレオン三世を捕虜にしてしまいます。フランスはやむなく降伏します。しかしビスマルクは攻撃の手を緩めず、パリまで攻め込んで包囲します。

プロイセンを中核に統一ドイツ帝国が誕生

パリ・コミューンと呼ばれる市民革命軍自治政府の抵抗で包囲戦は長引きましたが、その間、ビスマルクは包囲軍の本部をヴェルサイユに置き、バイエルンなど南ドイツの四国を取り込んで、統一ドイツ帝国を完成させることに成功しました。

 

ドイツ皇帝ウィルヘルム一世の戴冠式は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で執り行われました。七一年一月一八日、ドイツ帝国はフランスの心臓部で成立しました。ドイツはフランスに対して厳しい制裁を加え、五〇億フランの巨額の賠償金を課すと同時に、アルザス・ロレーヌ地方を割譲させました。石炭鉄鋼の鉱脈が連なる国境地帯の重要拠点です。普仏戦争はフランスにとっては国辱的な結末で終わりました。

 

ビスマルクの隆盛は絶頂期に入りますが、ビスマルクはフランスが報復に出てくることを大いに警戒しました。ここからが外交をもっとも得意とするビスマルクの真骨頂で、周辺の大国と同盟関係を結ぶことでフランスを包囲し孤立させることに全力を挙げました。

 

ビスマルクのドイツ帝国は、カトリックのオーストリアを除外したため、小ドイツと呼ばれますが、プロテスタントのプロイセン国王を皇帝に戴き、ヨーロッパの諸大国と肩を並べることになりました。ドイツ帝国は第一に、軍事的に強力なプロイセンを中核にした軍人支配の国家です。金髪碧眼、長身の青年近衛兵は強いプロイセン軍を象徴する姿でした。対仏戦争をはじめ三つの大きな戦争に勝ち抜いて帝国が築かれたことから、軍人には高い社会的地位が与えられます。ビスマルクのドイツは、帝国成立の時は、人口四〇〇〇万の国でした。農業中心だった経済は急速に工業化が進み、二〇世紀に入るころには人口は六〇〇〇万人を超えました。

ユーロは絶対に崩壊しない

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伴野 文夫

幻冬舎ルメディアコンサルティング

ヨーロッパは今、債務危機、難民、テロ、ロシアの膨張に、2016年6月、イギリスのEU(欧州連合)離脱決定も加わり、戦後最大の危機的状況にある。 日本では、EU消滅、ユーロ崩壊といった論調がしきりに聞かれる。しかし、EUは…

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