医療業界で広がる「心不全パンデミック」という新ワード
本来「パンデミック」とは、感染症が国境を越えて世界中に広がるような状況を表す言葉です。私たちの記憶にも新しい新型コロナウイルス感染症は、まさにパンデミックでした。
では、なぜ感染症ではない心不全に「パンデミック」という言葉が使われるのでしょうか。
それは、高齢化に伴って心不全の患者さんが急増し、病院だけでは受け止めきれない時代が現実になりつつあるからです。
心不全は一度治療して終わる病気ではなく、増悪と軽快を繰り返しながら何度も入退院を繰り返すことが少なくありません。その結果、病床が心不全患者さんで占められ、他の病気の患者さんが必要な入院医療を受けにくくなることが懸念されています。
このような深刻な状況に警鐘を鳴らす意味を込め、医療界では「心不全パンデミック」という言葉が使われるようになりました。
「在宅医療」が果たす、心不全治療の役割
このように、病院だけでは受け止めきれなくなった高齢の心不全患者さんを支える場として、在宅医療が大きな役割を果たすようになってきました。
その中でも大きな変化の1つが、ドパミン系薬剤を在宅で使用できるようになったことです※。心機能が低下した患者さんに対して、心臓に直接働きかけ、心臓の収縮力を高める治療を在宅でも行えるようになりました。
※ 厚生労働省「令和6年度診療報酬改定の概要【在宅(在宅医療、訪問看護)】」p.13(2024年)
また、心臓の状態を的確に評価するための心エコー検査が、小型の超音波診断装置、いわゆるポケットエコーの高性能化によって、必要なときにすぐ、患者さんの自宅で行えるようになったことも大きな進歩です。
しかし、心不全の在宅医療は薬物療法だけで成り立つものではありません。毎日の体重管理、浮腫の観察、呼吸状態の把握、塩分・水分管理、薬の内服状況の確認など、日々のきめ細かな管理が欠かせません。さらに、それらを支えるご家族の理解と協力も極めて重要です。
医師、看護師、多職種、そしてご家族が一つのチームとなって患者さんの生活を支える。そこに、在宅医療ならではの真価があります。
呼吸器疾患との密接な関係
心不全という病名の「不全」とは、「その人の全身が必要としているだけの心臓の働きを果たせなくなった状態」を意味します。
もちろん、心臓そのものの機能低下は大きな原因ですが、それだけではありません。全身の病気や栄養状態の悪化などによって心臓への負担が増え、必要とされる働きに応えられなくなった結果として心不全に陥ることも少なくないのです。
高齢者では、誤嚥性肺炎やCOPD(慢性閉塞性肺疾患)などの呼吸器疾患を合併することがよくあります。こうした病気では、酸素を全身に送り届けるために心臓はより多くの仕事をしなければなりません。しかし、心機能が低下している患者さんでは、その負担に耐えられず、心不全を引き起こしてしまいます。
また、心不全の患者さんでは、食後に息苦しさや疲労感を覚え、食事量が減ってしまうことも少なくありません。その結果、栄養状態が悪化し、筋力や心機能がさらに低下するという悪循環に陥ります。
このように心不全を診るということは、心臓だけを診るだけでなく、呼吸状態、栄養状態、身体機能、生活環境など、患者さんの全身を総合的に評価し、支えていくことが求められます。ここでも在宅医療は、その力を最も発揮できる医療の1つなのです。
病院医療との関係
高齢者の心不全に対する在宅医療では、心不全そのものの治療だけでなく、多くの併存疾患を抱えた患者さんの全身状態を診ることが求められます。
しかし、心不全が進行し、在宅での対応だけでは限界を迎える場面もあります。そのようなときには、病院で専門的な治療を受けることにより、さまざまな薬物療法や厳密な全身管理が可能となり、多くの患者さんが心不全の状態から回復します。この点において病院医療の果たす役割は極めて大きく、在宅医療に携わる私たちも日頃から深く感謝しています。
一方で、入院には別の側面もあります。高齢者では、安静による身体機能(ADL)の低下、褥瘡の発生、低栄養による体重減少などの影響により、心不全は改善しても全身状態が低下したまま退院されることも少なくありません。
だからこそ在宅医に求められるのは、「このまま在宅で治療を続けるべきか」「病院での入院治療が必要か」を適切に見極める判断力です。そして退院後は再び在宅で生活を支え、再増悪を防いでいく。この病院医療と在宅医療の橋渡しこそ、これからの心不全診療において極めて重要な役割だと私は考えています。
もちろん、そのためには病院と在宅医療との密接な連携が欠かせません。しかし現実には双方とも多忙を極め、十分な情報共有や意思疎通が難しい場面も少なくありません。切れ目のない医療を実現することが、私たちに課せられた大きな課題なのです。
もしも状態が悪化したら?…意思決定を支えるACPの難しさ
心不全の在宅療養は、医療技術の進歩によって可能性が広がる一方で、病院医療にも限界があり、医療資源の逼迫という社会的課題も抱えています。また、多くの患者さんが入退院を繰り返しながら少しずつ病状が進行していくという特徴もあり、極めて複雑な医療といえるでしょう。
だからこそ、患者さんご本人やご家族と十分に話し合い、これからどのような生活を送り、どのような医療を望むのかを共有することが何より重要になります。
状態が悪化したときには、その都度入院治療を選択していくのか。それとも入院による身体機能の低下や生活への影響も考慮しながら、自宅でできる限りの治療を続け、住み慣れた自宅で最期まで過ごすことを目指すのか。そのような意思決定を支えるACP(アドバンス・ケア・プランニング)は、心不全診療において極めて重要な役割を担っています。
もちろん、その答えは患者さんごとに異なります。在宅医は患者さんやご家族の思いに耳を傾け、それぞれの価値観を尊重しながら、医学的な見通しを丁寧に伝え、その時点で最も適切と考えられる方針をともに考えていくことが求められます。時には、これ以上入院治療によって得られるものは限られていることを率直にお伝えし、在宅で穏やかに過ごすという選択をご提案することもあるでしょう。
このような場面では、医学的知識や技術を伝えるだけでは十分ではありません。患者さんやご家族に寄り添い、信頼関係を築きながら、ともに人生の大切な選択を支えていく力が求められます。心不全診療は、医学的な力だけでなく、在宅医自身の人間力も試される医療なのだと私は感じています。
だからこそ私たち在宅医は、患者さんやご家族から学び続けながら、医師としても人としても成長し続けていかなければならないのでしょう。
野末 睦
医師
医療法人 あい友会 理事長
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