精神的・実存的苦痛…「スピリチュアルペイン」とどう向き合うか
そもそも緩和ケアとは何でしょうか? 日本緩和医療学会でも定訳となっている、2002年にWHOが定めた定義では、「生命を脅かす病気に直面している患者とその家族のQOLを向上させるために、身体的・心理社会的・スピリチュアルな苦痛を早期から評価し、予防し、和らげるアプローチ」とされています。
そして近年では、IAHPC(国際ホスピス緩和ケア協会)のコンセンサス定義に代表される、「重い病気による深刻な苦痛を抱えるすべての年代の人に対しておこなう、全人的(holistic)なケアであり、患者・家族・介護者のQOL向上を目的とするケア」という考え方へと発展してきています。
WHOの定義では病気が中心でしたが、現在では苦痛そのものに焦点が当てられるようになりました。また、QOL向上の対象も患者さんやご家族だけでなく、介護者まで広がっています。
そもそも、在宅医療を受ける患者さんの多くはさまざまな苦痛を抱えています。
例えば「自分はどうしてこんな病気になってしまったのだろう」「何も悪いことをしていないのに」と、自らの人生に疑問を抱き、自己肯定感が低下している方も少なくありません。
また、病院で受けた治療や入院生活に対して「自由な生活が送れなかった」「自分らしく過ごせなかった」という思いを抱えていることもあります。時には、入院中に尊厳が損なわれたと感じ、その経験が深い絶望感につながっている方もいます。
さらに、それまで果たしてきた仕事や家庭での役割を果たせなくなったことへの喪失感や、「家族に迷惑をかけている」という負い目を感じている方も少なくありません。
もちろん、身体的な痛みや息苦しさなどの身体的苦痛も重要ですが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に大きいのが、このような精神的・実存的苦痛、いわゆる「スピリチュアルペイン」です。
在宅医療を受けるほぼすべての患者さんにも、このような苦痛が共通してみられます。患者さんを取り巻くすべての関係者が、常に念頭に置くべき認識だと考えています。
「私に直接語りかけてくださった」…90歳の患者の言葉の重み
私は90歳の女性患者さんのお宅へ初めて訪問しました。
その患者さんは肺がんを患い、胸水も増えつつある状態でした。その日、病院を退院され、今後は病院で決定された「ベストサポーティブケア(Best Supportive Care:BSC)」の方針のもと、自宅で療養生活を送ることになっていました。
病状から考えると、残された時間はあと1〜2ヵ月ほどではないかと予想されました。
患者さんのお宅を訪ねると、私はいつものように、患者さんが休まれている場所へまっすぐ向かいました。ご家族とは軽く会釈を交わしてご挨拶をし、そのまま患者さんのもとへ案内していただきました。
初めてお会いしたその患者さんは、90歳という年齢を感じさせないほど凛とした雰囲気で、客間に敷かれた布団の上にきちんと正座をして、私を待っていらっしゃいました。
「はじめまして。〇〇さん、医師の野末です。今日退院されたのですね。久しぶりのご自宅はいかがですか?」
そんな何気ない会話から、いつものように診療を始めました。患者さんの目をまっすぐ見つめながら、ゆっくりと言葉を交わしていきます。
その後、患者さんがご自身の病状をどの程度理解されているのかを知るため、少しずつ病気のことへと話を進めました。すると患者さんは、はきはきと受け答えをしながらも、
「実は、病気のことはあまりよく分かっていないのです」
とおっしゃったのです。
改めて診療情報提供書を確認すると、患者さんご本人には病名そのものは伝えられていたようでした。しかし、現在の病状や、今後予想される経過、現れる可能性のある症状などについては、十分な説明がなされていないようでした。
その後も私は患者さんとの会話を続けながら、病名はもちろん、病状がかなり進行していること、今後は呼吸困難などの症状が現れる可能性があることを、少しずつお伝えしていきました。
そのうえで、呼吸が苦しくなった場合でも、ご自宅で酸素療法をおこなうことができること、必要に応じて強力なお薬を使い、苦しさを和らげることができること、ご家族もきっと一生懸命に支えてくださること、そして何かあれば私たちが24時間いつでも駆けつけることができることなどを、一つひとつ丁寧にお話ししました。
そのようなお話をしたあと、持参されたお薬を確認し、患者さんがどの程度動けるのかなどを診察して、その日の初診を終えました。
部屋を出ようとした、そのときです。患者さんが私を呼び止め、穏やかな笑顔でこうおっしゃいました。
「先生、今日は本当にありがとうございました。私、先生のことがとても好きになりました。今までは、どの先生も私の体のことを私には直接話してくださらず、いつもそこにいる長男に向かって説明していたのです。でも先生は、初めて私の目を見て、私に直接語りかけてくださいました。こんなにうれしいことはありません」
その言葉は、今でも私の心に深く残っています。
フランス発祥の認知症ケア「ユマニチュード」との出会い
施設で患者さんを診察するときには、多くの患者さんが車椅子に乗せられて、私の前まで連れてこられます。なかには歩くことのできる方でも、移動時間を少しでも短くするために、職員が車椅子に乗せて診察室までお連れすることがあります。
私も最初の頃は、そのような事情をよく理解していませんでした。そのため、一見お元気そうな患者さんには、聴診をしたり、足のむくみを確認したりするのと同じような感覚で、「ちょっと立ってみましょうか」と声をかけ、車椅子から立ち上がれるかどうかを診察していました。何気なくおこなっていたこの診察でしたが、不思議なことに、そのたびに患者さんがとても素敵な笑顔を見せてくださることが多いように感じるようになったのです。
車椅子から「すっと」立ち上がる患者さんを見ると、私も、そして一緒に診察に携わっている看護師や訪問診療アシスタントも、「おお、立てるんですね」と少し驚かされます。
そこで私は、「では、その場で足踏みをしてみましょうか」と声をかけます。それも問題なくできるようであれば、「では、少し歩いてみましょう」と続けます。すると、多くの患者さんが本当にうれしそうな表情で歩いてみせてくださるのです。その姿を見るたびに、「まだこんなに動ける」という喜びや自信が、患者さんの中によみがえってくるのを感じます。
いつしか、この「立つ」「足踏みをする」「歩いてみる」という一連の流れは、私の施設での診察におけるルーチンとなっていきました。
さらに私は、かつて創傷ケアセンターを運営していたこともあり、その頃から足を診ることを得意としてきました。診察では、足の爪の状態や足の変形を確認し、必要に応じて爪を切ったり、中敷きを作製したりすることもあります。
このように足を丁寧に診てもらうことを、多くの患者さんがとても喜んでくださいます。このような診療を私は長年、特別な意識を持つことなく続けてきました。
ところが、少し前に「ユマニチュード」というケアの考え方と実践方法を知り、大きな驚きを覚えました。ユマニチュードとは、フランスで生まれた認知症ケアの技法で、「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つを基本の柱としています。相手を1人の人間として尊重し、安心感と信頼関係を築きながらケアをおこなうことを大切にする考え方で、現在では認知症ケアだけでなく、高齢者医療や在宅医療、緩和ケアなど、さまざまな場面で活用されています。
その内容を知ったとき、私は冒頭でご紹介した90歳の患者さんとの出会いを思い出しました。あの患者さんは、診察の最後に「先生は初めて私の目を見て、私に直接語りかけてくださいました」と話してくださいました。
当時の私は、ただ患者さんご本人と向き合うことが当然だと思って診療をしていただけでした。しかしいま振り返ると、そのとき私は患者さんの目を見て、患者さんに直接話しかけ、患者さんの思いを聞き、そして安心していただけるよう丁寧に言葉を選んでいました。
また、施設で患者さんに「立ってみましょう」「歩いてみましょう」とお声がけし、足に触れながら診察してきたことも、ユマニチュードが大切にする「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱と自然に重なっていました。
私は、ユマニチュードを学んで初めて、自分が長年続けてきた診療の意味を体系立てて理解することができたのです。
患者さんを1人の人間として尊重し、その人の目を見て語りかけ、触れ、残された力を引き出す。そのような診療そのものが、患者さんの安心感や尊厳を支え、スピリチュアルペインを和らげる非薬物的な緩和ケアになっていたのだと思います。
あの90歳の患者さんは、診察の最後に「先生は私の目を見て、私に直接話してくださいました」と喜んでくださいました。私はあの言葉をいただいて初めて、患者さんを1人の人間として尊重し、その人と真正面から向き合うこと自体が、薬では得られない安心や尊厳を支える緩和ケアなのだということを、患者さんから教えていただいたように思います。
在宅医療では、薬を処方することだけが緩和ケアではありません。患者さんとの向き合い方、その一つひとつの言葉や仕草、診察そのものが緩和ケアなのです。
野末 睦
医師
医療法人 あい友会 理事長
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