資産は減っていない。それでも続かなかった生活
退職直後、直樹さんは解放感に満たされていました。目覚ましをかけずに眠り、平日の昼間に映画を見に行く。会社から連絡が来ないだけで、心が軽くなったといいます。
しかし、1ヵ月ほどで外出は減りました。
旅行は宿泊費が惜しくなり、語学講座も「無料の動画で十分」と申し込みませんでした。友人の多くは平日に働いており、予定も合いません。最初は好きだった一人の時間が、次第に持て余す時間へ変わっていきました。
さらに、運用資産の評価額が一時100万円単位で減りました。売却しなければ損失が確定するわけではありません。それでも直樹さんは、一日に何度も価格を確認するようになりました。
「会社員のころは給料が入ったから、下がっても買い増せた。でももう収入がないと思うと、数字が減るだけで怖くなった」
退職後は、前年の所得を基に算定される住民税や国民健康保険料の請求も届きました。会社員時代に給与から差し引かれていた負担が、まとまった支出として見えるようになったのです。60歳未満で厚生年金を外れた場合は、原則として国民年金への切り替えも必要になります。
資産が6,500万円あっても、その全額を自由に使えるわけではありません。相場下落への備え、税金や社会保険料、将来の住居費や医療費を考えれば、年間230万円という当初の見積もりにも余裕が必要でした。
浩司さんは「やはり再就職しろ」とは言いませんでした。ただ、毎日一度は外に出ることと、資産額を確認する時間を決めるよう勧めました。
その後、直樹さんは元同僚の紹介で、小規模な会社のシステム運用を週3日だけ手伝い始めました。
「もう働かないと言ったのに、格好悪いけどね」
直樹さんがそう言うと、浩司さんは「前と同じ働き方に戻ったわけじゃないだろ」と答えました。
収入は会社員時代の半分以下ですが、生活費の大部分を賄えるため、資産を取り崩す不安は小さくなりました。決まった時間に起き、仕事先で人と話すことで、生活のリズムも戻りつつあります。
浩司さんが3ヵ月後に見たのは、十分なお金を持ちながら、時間の使い道と社会との接点を見失っていた長男の姿です。直樹さんにとって6,500万円は、仕事を永久にやめるための資金ではなく、無理のない働き方を選び直すための土台になりました。
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