「自分たちで野菜を作ろう」68歳で始めた憧れの田舎暮らし
孝夫さん(仮名・73歳)と妻の恵美子さん(仮名・71歳)は、5年前に長年暮らした首都圏を離れ、地方へ移住しました。
夫婦の年金は月約26万円。子ども2人はすでに独立しています。
移住前は駅から徒歩10分ほどのマンションに住んでいましたが、孝夫さんが会社を退職したのを機に売却。以前から旅行で何度も訪れていた地域に、庭と畑の付いた中古の一戸建てを購入しました。
「会社を辞めたら、土を触って暮らしたかったんです。朝起きて畑に出て、自分たちで作った野菜を食べる。そういう生活に憧れていました」
最初のころは、想像していた通りでした。
春にはトマトやキュウリ、ナスを植え、秋には大根や白菜を育てました。採れたての野菜を食卓に並べ、余れば近所に配ります。
近隣には同年代の住民も多く、「ここも使ったらいい」と隣接する畑の一部を貸してもらうようになりました。
孝夫さんは張り切りました。ところが3年目あたりから、少しずつ様子が変わります。
夏場は数日放っておくだけで雑草が伸びます。野菜によって収穫の時期も違い、虫や鳥への対策も必要です。
「最初は朝の畑仕事が楽しかったんですよ。でも、そのうち朝起きると『今日はあそこを草刈りしないと』と考えるようになっていました」
恵美子さんにも不満がありました。
ある年の夏、娘から「3泊くらいで一緒に旅行しない?」と誘われました。ところが孝夫さんは、「今はキュウリとトマトが毎日採れるからな」と渋ります。
結局、旅行は秋に延期しました。別の日には、恵美子さんが「来週、友達のところに2泊してきてもいい?」と尋ねると、「その間、畑は俺一人か」と返されました。
「好きで始めたはずなのに、いつの間にか畑の予定を見てから、自分たちの予定を決めるようになっていたんです」
生活そのものにも、移住前にはなかった制約がありました。
最寄りのスーパーまでは車で約15分。駅までも車がなければ不便です。最初は「車があるから問題ない」と考えていましたが、70代になると、いつまで運転を続けるのかも夫婦の話題に上るようになりました。
内閣府『令和5年度 高齢者の住宅と生活環境に関する調査』では、現在の地域で不便・気になることとして「日常の買い物に不便」が23.9%、「医院や病院への通院に不便」が23.8%、「交通機関が高齢者には使いにくい、または整備されていない」が21.5%となっています。
移住から5年目の夏。朝から草刈りを終えた孝夫さんが家に戻ると、恵美子さんが何気なく「また草伸びてきたね」と言いました。
孝夫さんは庭を見ながら、ぽつりと答えました。
「もう畑を見るのも嫌になったな」
