5,000万円を守るうちに、失っていたもの
転機になったのは、美代子さんがかつて旅行を断った友人から、久しぶりに電話を受けたことでした。友人は足腰を悪くし、遠出が難しくなったといいます。
「前に誘った温泉、あのとき一緒に行けばよかったね」
電話を切った後、美代子さんは、断った旅行のパンフレットを保管していたことを思い出しました。「もう少し安い時期に行こう」と考えて取っておいたものです。しかし、その友人と旅行に行ける機会は戻ってきません。
「あのときは3万円がもったいないと思った。でも、一緒に行ける時間のほうが、ずっと貴重だったんだね」
美代子さんの言葉に、隆一さんも思い当たることがありました。元同僚から久しぶりに連絡があり、以前参加していた集まりが、メンバーの体調や家族の介護を理由に解散したと知らされたのです。
夫婦は初めて、貯蓄の使い道について具体的に話し合いました。
毎月の生活費や住宅の修繕費、将来の介護費用を試算し、それとは別に、1年間で使う「楽しみの予算」を40万円確保しました。使い切ることを目的にはせず、外食や旅行、習い事に使っても家計に影響しない金額として決めたのです。
最初に申し込んだのは、近隣の文化施設で開かれる歴史講座でした。受講料は数千円でしたが、隆一さんは申込画面を前に何度も迷いました。
「払えないわけじゃないのに、支払うボタンを押すのが怖かった」
美代子さんは以前断った食事会にも参加しました。すでに顔ぶれは変わっていましたが、帰宅後、「来月も行ってみる」と久しぶりに予定をカレンダーへ書き込みました。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、何らかの社会活動に参加した65歳以上のうち、生きがいを「十分感じている」または「多少感じている」と答えた人は84.6%でした。いずれの活動にも参加していない人より23ポイント高く、社会との接点と生きがいには一定の関連がみられます。
夫婦の生活が急に華やかになったわけではありません。予定のない日もあれば、出費を見送ることもあります。それでも、貯蓄残高だけを見て一日を終えることは少なくなりました。
「節約してきたことを後悔しているわけじゃない。それで家も持てたし、子どもも育てられた。でも、もう守るだけの時期ではないのかもしれないね」
美代子さんはそう話します。
翌月のカレンダーには、歴史講座、友人との昼食、夫婦で出かける日帰り旅行の予定が書かれています。貯蓄を大きく減らしたわけではありません。それでも夫婦にとっては、貯めることだけに使ってきたお金を、残された時間にも振り分け始めた大きな変化でした。
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