父が遺した「もう一つの備え」
経理部長から差し出された封筒には、会社の決算書や試算表が入っていました。健二さんが確認すると、借入金は急激に増え、手元資金は減少。利益よりも売上を優先した受注が続いた結果、資金繰りは急速に悪化していたのです。
驚く健二さんに、経理部長は重いため息をつきながら現状を明かしました。
「社長は営業の才能があり、仕事を取る力もあります。ただ、『売上が伸びればなんとかなる』と考え、利益の出ない仕事まで受けてしまうのです」
さらに、強引なDXや新規事業への参入、昔からの取引先との性急な契約見直しが重なり、社内は混乱を極めていました。「先月には専務が退職し、長年付き合いのあった主要な取引先からも今後の取引を打ち切られました」と経理部長は語ります。
数字の悪化以上に深刻だったのは、深刻な「人離れ」でした。人がいなくなれば、組織はいずれ破綻します。「先代に拾われた恩があるからこそ、会社が潰れるところは見たくない。健二さん、どうか会社を助けてください」と、経理部長は深く頭を下げました。
しかし、すでに別会社でキャリアを築いている健二さんは「私は部外者ですから……」と答えるのが精一杯でした。
帰り道、幼いころに父親と歩いた建設現場の景色と、「会社は人との信用でできている」という父親の言葉が脳裏をよぎります。あのとき、父親が自分にだけ決算書や現場を見せていた理由が、点と線でつながった瞬間でした。
数日後、父親の遺産整理を担当していた弁護士から連絡があり、健二さんは事務所を訪ねました。そこで弁護士から手渡されたのは、父親が密かに託していた一枚の書面でした。そこには、創業社長としての深い意図が記されていたのです。
『まず健一に任せてほしい。営業もできる。会社をもっと大きくしてくれるかもしれない。上手く行けばそれでいい。ただ、会社は社長だけのものではない。会社はお客さん、社員、その家族、何十年も支えてくれた取引先から預かっているものだ。もし健一が守れなくなったなら、そのときは会社を守れる者が守ってほしい』
父親は長男を見限っていたわけではなく、その可能性を信じて社長の椅子を託していました。しかし同時に、もし経営がコントロール不能に陥った際、会社そのものを破滅から救い出すための「もう一つの仕組み」を準備していたのです。実は父親は、万が一に備え、信頼できる古参株主や健二さんへの株式配分・議決権の設計において、特定の人間だけで会社を私物化できない防衛策を生前に整えていました。
父親の真意を理解した健二さんは、その日から行動を開始します。父の代から会社を支えてきた古参株主、取引先の経営者、元役員たちを一人ずつ訪ねました。
当初は「兄弟間のトラブルには首を突っ込みたくない」と難色を示す株主もいましたが、健二さんは丁寧に現状を説明し続けました。直近の資金繰り表と退職者の一覧を見せ、最後に父親が遺した「会社は社長だけのものではない」という言葉を伝えると、頑なだった株主たちの心が少しずつ動きはじめました。
