「毎日温泉」の老後に憧れ、東京を離れた65歳夫婦
夫婦ともに65歳で会社を退職したのを機に、智子さん(仮名)は夫・寿さん(仮名)とともに、長年暮らした東京を離れ、大分県の山あいにある小さな温泉町へ移住しました。
現役時代は仕事と子育てに追われる日々。それでも年に数回は温泉旅行へ出掛け、そのたびに二人は決まってこう話していました。
「いつか毎日温泉に入れる暮らしができたら、最高だね」
子どもたちも独立し、ようやく訪れた"第二の人生"。夫婦は長年温め続けた夢を、ついに実現させたのです。
いくつもの移住相談会へ足を運び、担当者からは「移住者も多く、皆さん地域に溶け込んで暮らしています」と説明を受けました。あえて選んだのは、観光客でにぎわう大型温泉地ではなく、昔ながらの穏やかな時間が流れる小さな温泉町。
「毎日温泉に入りながら、近所の人と穏やかに付き合う。」――そんな老後を思い描いていました。
夫婦の年金は月23万円。老後資金は約2,600万円あり、東京の分譲マンションを5,800万円で売却。町の中心から車で10分ほどの場所にある庭付きの中古住宅を購入し、移住を実行したのです。
「親切な人ばかり。でも…」
移住してまず驚いたのは、住民の温かさでした。近所の女性は畑で採れた野菜を届けてくれ、「困ったことがあったら何でも言ってね」と笑顔で声を掛けてくれます。商店ではすぐ顔を覚えられ、温泉施設でも「東京から来たご夫婦か、よろしく」と気さくに話しかけられました。
「こんなに親切な人ばかりなんだ」
智子さんは心から感動したといいます。しかし、その温かさは、少しずつ別の感情へと変わっていきました。
朝、庭に出ると「今日は早いね」。買い物へ行けば「今日は町まで?」。数日温泉へ行かなければ、「最近見かけなかったけど体調悪いの?」――。
ほぼ毎日のように同じ顔ぶれと湯船につかり、自然と世間話が始まります。高齢者が多い町だからこそ、お互いを気遣い、見守り合う文化が根付いていたのです。
しかし、東京のマンションで、近所付き合いは挨拶程度という暮らしが当たり前だった智子さんにとって、その距離感は思いのほか大きな負担になっていきました。

