「これからは夫婦でゆっくり」退職祝いの旅行で語り合った老後
雅彦さん(仮名・65歳)は、長年勤めた会社を定年退職した直後、妻の良子さん(仮名・63歳)と温泉旅行に出かけました。
「これまでまとまった休みなんてほとんど取れなかったので、ようやく夫婦でのんびりできると思ったんです」
退職金はすでに住宅ローンの完済や手元資金の確保に振り分け、年金見込み額は夫婦で月21万円ほど。贅沢はできなくても、持ち家であれば何とか暮らしていける。そう考えていたといいます。
「派手な老後じゃなくていいから、近場に出かけたり、家でゆっくりしたり、そういう生活をイメージしていました」
温泉旅館では、夕食のあとに将来の話もしたそうです。
「妻が“これからは、朝ゆっくり起きて、たまに旅行して、それで十分だよね”と言っていて、私も本当にそう思っていました」
ところが、その旅行から帰宅して間もなく、思いがけない事態が起きます。
ある日の午後、インターホンが鳴り、玄関を開けると、そこには母・和江さん(仮名・85歳)が立っていました。大きなバッグを抱え、疲れ切ったような顔をしていたといいます。
「最初は、何かの用事で来たのかと思いました。でも、様子が明らかにおかしかった」
母は電車とタクシーを乗り継いで、一人で来たといいます。もともと隣県で一人暮らしを続けていましたが、最近は足腰が弱り、買い物や通院も負担になっていたそうです。
「いきなり、“もう一人では無理かもしれない”と言われました。正直、その場では意味が飲み込めませんでした」
話を聞くと、母は自宅で転倒し、数時間動けなくなった日があったといいます。幸い大事には至らなかったものの、その出来事をきっかけに、一人暮らしへの不安が一気に強まったようでした。
「近所の人に迷惑をかけたくない、施設はまだ嫌だ、でも一人はもう怖い。そう言われて……」
雅彦さんは言葉を失いました。旅行先で語っていた“夫婦二人の老後”が、わずか数日で現実味を失っていったからです。
「母に帰れとは言えませんでした。言えないですよね、やっぱり」
その日から、母との同居生活が始まりました。
