「便利なのに、落ち着かない」暮らしの質に生じたズレ
金銭面と同時に、二人を苦しめたのが生活感覚の変化でした。
自宅にいた頃は、朝はゆっくり新聞を読み、気が向けば散歩に出て、夜は好きな時間に入浴する。そんな何気ない暮らしがありました。しかしホームでは、食事時間もイベントも一定のリズムで組まれ、便利である一方、自分たちのペースで生活する感覚が薄れていきました。
「不便ではないんです。でも、ずっと“施設の生活”をしている感じが抜けませんでした」
国土交通省『令和5年住生活総合調査』によると、住み替え後の暮らしは住宅性能だけでなく、周囲の環境や生活スタイルとの相性にも左右されることが示唆されます。夫妻にとっては、設備やサービスの充実と、落ち着いて暮らせることが必ずしも一致しなかったのです。
入居から3年が過ぎたころ、夫妻は改めて資産の推移を確認し、強い危機感を覚えました。
「このままのペースで取り崩していったら、どこかで想定より早く苦しくなると思いました」
年金収入は月30万円あっても、夫婦での生活費はそれを大きく上回っていました。もともと資産9,000万円という数字には安心感がありましたが、入居一時金と毎月の高額な固定費が重なると、その取り崩しの速度は想像以上だったといいます。
「数字だけ見れば、まだ余裕があるといえるのかもしれません。でも、80代、90代までの生活を考えたとき、“まだ大丈夫”とは言い切れなくなったんです」
総務省『家計調査報告〔家計収支編〕2025年平均結果の概要』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯は、可処分所得が月22万1,544円である一方、消費支出は26万3,979円と、平均的には赤字です。
平均像でも赤字が生じている中、高価格帯の施設に入れば、当然ながら家計への圧力はさらに強くなります。夫妻は当初、その差額を“資産があるから埋められる”と考えていましたが、実際には「どのくらいの速度で減るのか」を十分に把握していませんでした。
こうした不安は、次第に夫婦の会話にも影を落としました。
誠一さんは支出を見直したいと考える一方、道子さんは「せっかく入ったのだから、あまり窮屈に考えたくない」と感じていました。もともとは二人で納得して決めた住み替えだったはずが、いつしか「誰のための選択だったのか」を問い直すような空気が生まれていったのです。
「どちらかが悪いわけではないんです。ただ、安心のために選んだはずの場所で、お金のことばかり考えるようになってしまった」
