退職祝いの夜、夫婦が思い描いていた「これから」
「長い間ありがとう。本当にお疲れさまでした」
そう言って、由美子さん(仮名・58歳)は退職を迎えた夫・正人さん(仮名・60歳)のために、小さな食事会を用意しました。正人さんは大手メーカーに40年近く勤め上げ、この日が最後の出勤日でした。
テーブルには夫の好きな料理が並びます。子どもたちはすでに独立しており、その夜は夫婦二人きりの静かな退職祝いでした。
「ここまで働いてこられたのは、お前のおかげだ」
そう言って、正人さんは何度もグラスを掲げました。長い会社生活を終えた安堵もあったのでしょう。最後には目を潤ませながら、妻に感謝の言葉を繰り返していたといいます。
由美子さんもまた、ようやく一区切りがついたような気持ちでした。
「これからは二人でゆっくり暮らそう」
そんな未来を、自然と思い描いていたそうです。
ところが翌朝、朝食の席で由美子さんは静かに言いました。
「正人さん、少し話していい?」
夫は新聞を畳み、「どうした」と聞き返しました。由美子さんは少し間を置いてから、こう続けました。
「私、これからは別々に暮らしたいと思っているの」
その言葉に、正人さんは一瞬、何を言われたのか理解できなかったといいます。
「……どういうことだ?」
昨夜、退職祝いの席で「ありがとう」と言っていた妻が、その翌朝に突然「別居」を切り出したのです。由美子さんは、長い間考えてきたことを少しずつ話しました。
「あなたが仕事を辞めたら、変わるんじゃないかと思っていたの」
正人さんは会社中心の生活が長く、家庭のことにはほとんど関わってきませんでした。平日は帰宅が遅く、休日も仕事の電話や付き合いが入ることが多かったといいます。
そのため家のことは、ほぼ由美子さん一人で回してきました。
「忙しいのは分かっていたから、私も何も言わなかった。でも……退職したら、少しは一緒に暮らす形も変わるのかなと思っていたの」
退職前の有給休暇の消化などで夫が家にいる時間が増えた頃から、由美子さんはあることに気づきました。家にいても、夫の生活はほとんど変わらなかったのです。
食事の準備も、洗濯も、家のことはすべて妻任せ。夫はテレビを見て過ごし、何か頼まれると「今はいいだろう」と言うこともありました。
「このまま毎日こういう生活が続くのかと思ったら、正直つらくなったの」
