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中高の学生時代から浪人生〜プレハブ医学部での再出発
中学では生涯の恩師の一人、担任だった英語の先生が顧問を務めるバレーボール部に入って文武両道を教えられた。なによりもつらかったのは、当時は体育館ではなく外の運動場での練習だったため回転レシーブでは傷だらけになっていた。今では驚かれるが、当時は容易に水も飲ませてもらえなかったため、まさに「死ぬような」つらい思いで、ボールに食らいついてセッターをやっていた。
セッターの仕事は次を読むことであり、奇襲することであり、時には弱点を補うためにカバーに入ったりすることが大切である。肉体的にはつらかったが、今思うとこの3年間は筆者がいちばん輝いていた時期だと思っている。よく運動したし、よく勉強もした。ここで生涯の趣味となるクラシック音楽とも出会った。
後年、母親は、筆者が天王寺高校(公立)へ進学するために学区域を変え、わざわざ引っ越してまで阪南中学(公立)に入った。それにもかかわらず、筆者が休みの日まで練習をするような大変なクラブに入ってしまい、成績が落ちないかと、いつも気を揉もんでいたという。親の心、子知らずである。
無事、天王寺高校へ入ったあとも同様で、今度はブラスバンド部へ入って音楽にのめり込んだ。今自分が専門とする腎臓病の症状の一つ、蛋白尿が出ていたためドクターストップがかかり、バレー部へは入れなかったためだ。代わって中学で初めて聴いたクラシック音楽になじみができていたので、ブラスバンド部に入ってクラリネットを吹く毎日だった。
やがて音楽大学に進学し、将来は指揮者になりたいという夢を抱くようにもなっていた。モーツァルト、ベートーベン、ブラームスなどありとあらゆるクラシック音楽を聴くようになった。ひと月に1枚のLPを買うのが楽しみだったが、NHKのFMラジオで耳をそばだてて聴いていた思い出が多い。だが、父の一言がそんな筆者の進路に影響を与えることになる。
「音楽は楽しむためのもの。聴いて楽しめばいい。それにお前はピアノすらやっていない」
そう上手に諭された筆者は、中学に入ってなんとなく抱いていた医師という職業への関心を思い出し、進路を変更する決意を固めた。
ただ、音楽にのめり込むほどに学業成績は下降し、見事受験には失敗。「仮ならぬ春に芽を吹け若柳」という心境だった。浪人生活が始まってまもなく、年度の途中だが、「国会での承認が遅れたけれども浜松と宮崎に新しく国立の医科大学ができるらしい」という噂が耳に入った。しかも、その入試は6月に行われるという。まだ本格的に受験勉強を始める前だった筆者は、「模試代わりに」と軽い気持ちで試験を受けてみることにした。
全員が浪人・予備校生なので競争率が40倍に膨れ上がった受験であった。各会場に全国から集まって来た多浪生のなか、「こんな人たちには到底かなわない」と気後れしたものの、本当に運良く合格した。そして、1974年7月、浜松医科大学の第1期生として入学することとなった。
何も欲がなかったのが良かったのだろう。気楽に試験を受けに行った浜松で、その後の人生の大きな一歩が始まるとはまさに運命だった。運命とはこんなものだと思うが、どこかに何かの仕掛けがあると思う。それは「神様がいるんだ」と言う言葉で表せるように思う。
入学式は真夏の暑い7月。新設大学に胸を躍らせながら校門をくぐった筆者は、そこで思いもよらぬ光景に出くわすことになる。目の前に立っていたのは、コンクリートではなくプレハブの仮校舎だったのだ。医療施設らしき建物もなければ、学生生活を彩るはずのテニスコートさえ見当たらない。私が思い描いていた「ピカピカのキャンパスライフ」とは、かけ離れた現実がそこにあった。プレハブの仮校舎で、遅れたスタートを取り戻すため夏休み返上で教養の講義がスタートした。
大学を卒業する頃のことだ。当時スタートし始めた腎移植をやるため泌尿器科へ入るつもりが、「そもそも腎臓病にならないようにすればいい、腎臓病が進まないようにすればいい」という先生の言葉に納得して、腎臓内科への道を選びそのまま浜松医科大学の第一内科の医局に所属。その後、いくつかの病院を経て、現在に至るまで医師としてのキャリアを積み重ねてきた。
ここまでの経緯を見れば分かるとおり、筆者には高い志も、崇高な理想もなかった。ましてや、病院のトップになるなどとは、思いもしていなかった。医師としてアフリカへ行くことなどさらさら考えもしなかった。もちろん、医師という職業が人の命を救う重責を担っていることは、頭では理解していたつもりだった。しかしその重みを、自分の身で実感するようになるのは、もう少し先のことになる。
