「ねえ、畑やらない?」
「もう定年なんだし、二人でどこか静かなところに移住して、畑でもやらない?」
そう言ったのは、夫の健一さん(仮名・当時61歳)の妻・真理子さん(仮名・59歳)でした。都内のマンションで暮らしていた二人は、子どもも独立し、定年退職後の生活を模索していた時期でした。
テレビで特集されていた「田舎暮らしの達人」や「農ある暮らし」の番組に感化された真理子さん。元々家庭菜園が好きだったこともあり、「夫婦二人で畑をやりながら静かに暮らす」そんな夢を描いていたのです。
健一さんは最初こそ戸惑いましたが、「週末にしか乗らない車のために高い駐車場代を払うくらいなら」と、経済的な面も踏まえて移住に納得。定年退職金もある。少しの蓄えもある。年金が始まるまでは貯金を切り崩せばいい――そんな目算でした。
移住先に選んだのは、真理子さんの出身地に近い長野県の山あいの町。自治体の「空き家バンク」で築40年の古民家を紹介され、わずか200万円で購入しました。リフォーム費用として別に300万円ほどかかりましたが、移住支援金(※)が一部補助してくれたため、手出しは抑えられました。
※地域によっては「移住支援金(最大100万円)」の制度があります(東京都からの移住など一定条件あり)。
役所の担当者も親切で、近所の方々にも「よう来たな〜」と歓迎され、初年度は野菜作りに夢中になりました。
「キュウリはこんなにできるんだね!」「夏は毎日トマト三昧よ!」
採れたての野菜を近所に配ると、お返しに手作り漬物や山菜が届く。そんな“田舎の人間関係”にも喜びを感じていたと言います。
しかし2年目の秋、少しずつ“ほころび”が見え始めます。
「今年は暑さが続いてね…トマトも全滅。草だけは元気に育ってさ」
と、苦笑いを浮かべる健一さん。高齢化や気候変動の影響もあり、農作業は想像以上に過酷だったのです。水やり、草むしり、虫対策、獣害。加えて設備の老朽化や冬の寒さへの備えもあり、思った以上に「お金と体力のいる生活」でした。
妻の真理子さんはというと、秋口から膝を痛め、畑に出られなくなってしまいました。
「一緒にやりたいって言い出したのは、妻だったんだけどね…気づいたら、全部ひとりでやっている感じになっていて」
健一さんはそう振り返ります。
