異動によって、自分の新たな可能性を見出すこともある
人事に左遷なしとはよく言われることだが、実際は違う。あなたにとっては不本意な異動があるだろう。
不本意な異動とはどのようなものなのだろうか。自分の実力以下のポストを与えられること。しかし自分自身の評価というのは他人の評価の2割増しだという。鏡を見て、「俺はいつ見ても二枚目だな」と思うだろうが、他人が見たら「ナルシスト」という評価になるだけだ。
企画部に行きたかったのに営業部になった。これもなぜ企画部に行きたかったのかを考えればよい。企画部でこんな企画をしたいというよりも、エリート風を吹かすことができるからと言うのでは、企画部に行っても役に立たないだろう。
このように実際の異動があったとき、それはどのように不本意なのかを冷静に考えればよい。そうすれば案外、その異動によって自分の新たな可能性を見出すことになる。
有名なジャーナリストの池上彰さんに伺ったことがある。彼はNHKのメインニュース番組のキャスターになる予定だった。ところが局内の派閥争いか何かの影響を受けて「週刊こどもニュース」のキャスターになった。
きっと不本意だっただろう。子供相手のニュース番組だ。そこで彼は一念発起した。最も分かり易いニュース番組を作ろうと思ったのだ。
その思いは彼の話す力によって大成功し、子供ニュースなのに大人までが見るようになり、彼はメディアの寵児になったのだ。もし不本意な異動がなければ、池上彰は生れていないということになる。
孔子は、「人知らず、而して愠らず、亦君子ならずや」(学而第一)や「人の己を知らざるを患へず。人を知らざるを患ふ」(為政第二)などと言う。
他人が自分のことを知らなくてもいい。他人の評価なんかいちいち気にするな。そういう態度こそ君子じゃないか。他人の自分に対する評価を気にするより、あなたが道を極めた人を知らないことの方が問題だ。このような意味だろう。
孔子自身が、かなり不本意な人生を歩んだ。なかなか孔子の考えを受け入れてくれる国がなかったからだ。不本意な人生を歩んだからこそ2500年以上も残る論語が生まれたのだ。もし孔子が順風満帆な人生を送っていたら論語は生まれなかっただろう。
不遇のときにこそ「自分の得意なこと」を探す
孔子はまた次のように言う。「人の己を知らざるを患へず。其の不能を患ふ」(憲問第十四)。
人が自分のことを知らないことや他人の評価などは気にしないでもよい。それよりか自分の能力のなさを気にした方が良い。不遇の時、他人が自分をどう評価しているかというより、もっと自分が努力して能力を磨くべきだというのだ。
しかし、私は、足りない能力を磨くより、不遇のときにこそ自分の得意は何かということを見つけるべきだと思う。池上彰さんが、自分の話す力に磨きをかけたように、不遇のときにこそ、一芸を磨くことが必要ではないか。
そうすれば、不遇の時代があったからこそ、一芸を磨くことが出来たと懐かしく思い出すことだろう。