母の世話のため、会社帰りに実家に立ち寄る50代女性
東京都内の一軒家に暮らす政子さん(82歳・仮名)は毎日、夕方になる前から、娘の由美さん(55歳・仮名)の来訪を待ち焦がれています。由美さんは都内の会社に勤務する会社員で、仕事帰りにはスーパーへ立ち寄り、政子さんのための食材や日用品を買って帰ってくるのです。
「お母さん、ただいま…」
「もう7時過ぎてるじゃない! いったいなにをやっていたの…」
いつもより30分近く食事を待たされた政子さんは、思わず声を上げました。由美さんは疲れた表情で笑顔を作り、「ごめんなさい…」と小さい声で謝ります。
由美さんは休むことなくキッチンへ直行し、すぐに食事の支度に取り掛かります。政子さんは、娘が疲れているとわかっていても、待ちくたびれた自分のいら立ちを隠せません。
政子さんが夫を亡くしたのは5年前。その後も住み慣れた築古の戸建てに暮らしています。しかし、去年の春先に室内の段差につまづいて転倒して腰を痛め、日常生活が不自由になりました。
「ああ、痛い痛い」
政子さんは腰をさすりながらダイニングに移動し、せわしなく食事の準備をする由美さんの背中を眺めています。
「あんた、最近毅(仮名)と連絡とってるの? あの子、全然連絡よこさないから…」
政子さんは、由美さんに独り暮らしの独身の弟の様子を尋ねます。
「さあ。元気だと思うけど?」
「なによあんた、お姉ちゃんなのに無責任ねぇ。たったひとりの弟が心配じゃないの?」
由美さんは苦笑いし、なにも答えませんでした。
「今度の土曜日には、病院へ連れて行ってもらわないと…」
政子さんが食事を終えると、由美さんはそそくさと片づけをして帰り支度をはじめます。滞在時間はわずか1時間半。由美さんは自転車で20分ほど離れた自宅マンションに帰るのです。自宅では、同い年の夫が待っています。
「じゃあお母さん、帰るね」
「はいはい。また明日」
由美さんをダイニングから見送った政子さんはため息をつきました。
「ああ、体が痛い。今度の土曜日には、由美に病院へ連れて行ってもらわないと…」
政子さんの年金は月額およそ15万円。会社員だった夫が残した預貯金と自宅があるため、老後生活は贅沢こそできませんが、日常生活はどうにか回っており、子どもの援助を受けるほどではありません。
「ただいま…」
「おかえり!」
自宅に帰った由美さんが玄関を開けると、夫がキッチンから笑顔を向けました。
「お疲れさま。すぐご飯できるよ」
「ありがとう…!」
由美さんは、自宅に戻って夫の顔を見ると、心底ほっとするのです。