石油ショックから安定成長へ
日本経済は1970年代前半に2つのショックに見舞われた。
1つ目はドル・ショック(ニクソン・ショック)と呼ばれ、1971年に米国ニクソン大
統領がドルと金の交換停止を発表したことを指す。73年からは変動相場制に移行し、日本経済は為替上昇圧力に直面していった。
2つ目が1973年の石油ショックである。第四次中東戦争を契機とする原油の供給逼迫は、石油価格の上昇をもたらし、物価を押し上げる要因となった。それが賃金の上昇につながり、さらなる物価上昇をもたらしていく。
こうした国際的条件のもとで、世界の主要国は、経済が停滞するなか物価だけが上昇するスタグフレーションを経験し、経済成長率の低下と、物価ならびに失業率の上昇に悩まされていった。(橋本寿朗ほか『現代日本経済 第4版』有斐閣、2019年)。
日本では、石油ショックに先立って、1972年に成立した第一次田中角栄内閣が、いわゆる日本列島改造論に基づく拡張的財政政策をとったことから、石油危機直後の物価高騰は狂乱物価と呼ばれるほど激しいものとなった。
しかし、日本の経済成長率は、1974年に戦後初のマイナスを記録したものの、その後は1980年代まで5%前後で推移し、国際比較でも速やかにスタグフレーションからの脱却を果たして安定成長を実現した。
1979年からの第二次石油危機に際しても、日本経済は高い対応力で乗り切ることに成功している。これは、企業内部の余裕資源を減らし、省エネ対策を進めた減量経営の成果でもあった。
安定成長期の日本経済は、輸出主導型の成長パターンをとった。製造業を中心とした民間設備投資が低迷し、高度経済成長期のような「投資が投資を呼ぶ」メカニズムは働かなくなったのである。代わって輸出が景気回復を主導したが、急速な輸出拡大は、相手国との貿易摩擦を深刻化させた(武田晴人『日本経済史』有斐閣、2019年)。

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1975年には世界的な景気後退のなかで、第1回のサミット(先進国首脳会議)が開かれ、以後、世界経済の運営について協議する場として定着する。
77年の第3回ロンドン・サミットでは、アメリカ、ドイツとともに、日本も世界経済の牽引車になるべきだという経済機関車論が提起され、日本が経済大国としての国際的役割を果たすことが期待された。
日本政府はこれに応えるべく、積極的・拡張主義的な予算編成を進めるが、税収不足が深刻化するなかでは、公債依存度の急激な上昇が不可避となった。
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