刑務所より生きづらかった「一般社会」
学力的には問題がなかったとしても、コミュニケーション能力や社会性に著しい困難を抱えていた彼にとっておそらくこの社会は耐え難いほどに「生きづらい」ものだった。
少なくとも、刑務所で囚人として生きるほうが「ひとりの人間として尊重されている」と感じられるくらいには。
一般社会であれほど望みながら手に入れられなかった衣食住や友人や娯楽や仕事が当たり前のように提供され、しかも自分のことを心配して看てくれる人が常に傍らにいる――彼にとっては一般社会こそが「刑務所」で、刑務所こそが「一般社会」のような表情をしていた。
私が小島受刑者の手紙を「皮肉で書いたのではなく本心からの言葉だ」と感じるのは、私自身もかつてそういう道に堕ちてしまった旧友から、小島受刑者のそれとまったく同じ主旨の言葉を聴かされたことがあるからだ。
私のある旧友もまた、生きることには不器用すぎて悪の道に堕ちていき、犯罪に手を染めて捕まり、刑務所で過ごしていた時期があった。彼が出所したのち偶然に再会して話をしたとき、彼は私にこう言った。
「刑務所は間違いなく底辺。だけど、それ以上落ちることはないから安心できた。シャバは地獄。落ちる人はどこまでも落ちるから。」
刑務所では最低限とはいえ衣食住が保証されているし、仕事が与えられ、テレビを観たり本を読んだり勉強したりもできる。それらは彼にとって、シャバでは望むべくもなかったものだった。
彼がシャバで得ていた仕事は、機械工作とか家具の組み立てとか、そういう世のため人のためになる“まっとう”なものではなく、他人を騙して陥れ、ときに暴力を振るってカネを不当に巻き上げる非道な営みだった。
だがそういう非道を「仕事」にするしか、彼には選べなくなっていたのだ。
ある一群の人びとにとって、実社会のほうがもはや刑務所よりも冷たい。
人間関係からも社会経済からも徹底的につながりを断たれ、社会の正式なメンバーとして見なされていない、いわば“透明な存在”として浮遊しているような虚無感や孤立感ばかりが募ってくる。
普段は自分のことを社会の正規メンバーとしてはまったくカウントしていないくせに、しかし自分がなにか“わるさ”をしたときにだけ、社会の正規メンバーに適用される「法」を持ち出して裁きを与えてくる。
彼らにとって、社会は自分を包摂するときではなく、排除するときにだけ、自分たちを視界に入れるような感じがするのだ。
自分たちが社会から無視され無化される「透明人間」でなくなるのは、包摂されるときではなく排除されるときだけ。そういう理不尽と疎外感がますます「シャバに生きていたくない」という感覚を強める。
<死ぬまで刑務所に居てもよい無期でこそ、私と国は一つとなる。無期なら国が死ぬまで面倒を看てくれる>
(弁護士ドットコム『無期懲役を狙って新幹線に乗り込んだ22歳の凶行、期待通りの獄中生活に「とても幸福」 死刑に次ぐ刑罰の意味とは』2024年9月4日より引用*1)
なんの恨みもない人を殺し、裁判にかけられ無期懲役囚になって、それでようやく彼は国(社会)から「メンバーシップ」を与えられた実感を持ったというのは、残念で哀しい。