揺らぐ行政の存在感と地域コミュニティの再興
今後キャピタリズムの中で伸張が予想される分野に加え、最後に社会システム全体の行く末についても考えを巡らせておきたい。
前提として、この国を一つの単位で捉えることはすでに限界を迎えている。今後はそれぞれの地域コミュニティに分割し、「マルチコミュニティ」の観点から捉え直す視点が重要となる。
現在の政治システムは過渡期にあり、地方交付税や国庫支出金は底をついている。そのため、今後はそれぞれの地域コミュニティに自立が求められる。自分たちで地方債を発行し、外交してもいいだろう。各地域が民主主義を達成し、社会インフラを作り、そこで暮らす人々の幸福度を高めてゆく。
地域コミュニティの社会インフラを作る仕事を「コミュニティオプティマイザー」と呼ぶが、今後その役割の重要性が増してゆくはずだ。それと並行して、従来の中央集権的な政府や行政の存在感は薄らいでゆき、将来はなくなってゆくことすら推測できる。
地域コミュニティのインフラは次の4つに分かれてゆく。
1つ目は財政で、2つ目は保険をはじめとする健康管理システム。3つ目に法律(条例)と、4つ目に教育がある。これらの基礎インフラがコミュニティごとに変わってゆくはずだ。実際、今でも健康管理システムや教育システムは大学を中心として変化している。現状、財政と法律は自立できていないが、財政に関しては、今後、各地域コミュニティが藩札のような形で紙幣を発行し、自立してゆく可能性がある。法律も、アメリカでは州法として分かれて施行されている。日本でも同様に、地域ごとにこうしたインフラが分かれて管理されるようになる。
これらのインフラは今まで国家が一元的に担っていた部分であるが、今後地方が自立を果たしてゆく中で、一部の無秩序なエリアが生まれてしまうことは不可避だろう。長い目で見れば、そうしたエリアはいずれ滅びてゆくと思われる。
日本の人口は、今後1億2330万人から半分以下の6000万人へ減少すると見込まれている。都市国家を中心とした連邦国家へ移り変わらなければ立ち行かなくなるだろう。
たとえば、イギリスで特急電車に乗った場合、駅を出てから10分もすると、羊しかいない田園風景が眼前に広がる。そうかと思えば、またしばらくすると建物群が現れ、次の都市に到着する。日本の場合はどうだろうか。新幹線に乗っても、連なった住宅の風景がどこまでも続く。しかし、こうした光景にも早晩変化が訪れる。
各地域コミュニティが自立するためには、独自のインフラや産業を持ち、海外と取引を行い、貿易によって地域が潤ってゆく必要がある。その過程で、起業家や若者たちは暮らしやすく働きやすい場所へ移住し、その地域にコミットすることで、改革が生じることが想定される。
こうした未来へ向けた変化へのスピード感や洗練度は、各都市ですでにまったく異なる様相を呈している。
その違いを生むのは、都市ごとの危機感の強さである。都市ごとの病院システムや移動手段としての交通インフラを比較したとき、改革がまったく進んでいないエリアもあれば、急激に進化を遂げている都市もある。日本でも県単位で見ると、神奈川県としてはそれほど進んでいないが、横浜や鎌倉のように、一部の市で先進的に改革が試みられている場合もある。
漂白化された世界で「個性」を取り戻そう
キャピタリズムによって大量のエネルギーを投下しながら、大量に同じ製品を作り、それを世界へ供給する仕組みによって、各地の歴史や文化、個別性、文脈といった人文的要素が世界から洗い流されてしまった。世界のどこに行っても、誰もが同じものを同じように享受するようになった(マクドナルド、iPhone、Netflixなど)。
そんな世界は、なるほど便利である。効率的である。しかし、これは人類の生存にとって危機である。なぜなら人類とは、社会性と個性という相対する二つの要素を掛け合わせて「分業」したからこそ発展してきた種族だからである。資本主義のエネルギーによって個性が漂白されたことで人類は強みを一つ失い、片手をもがれた状態である。
人類は「個性」を取り戻さなければならない。その「個性」から発露する「創造性」を持って新しい世界を作ってゆく必要がある。それが資本主義によって漂白された匿名世界をひっくり返すパワーとなるからだ。そのために私たちができることは何だろうか。キャピタリズムの勝者となること? あるいは……。
山口 揚平
ブルー・マーリン・パートナーズ株式会社
代表取締役