「お金より時間」という価値観
シェアリズムにおいては、お金に対する捉え方がまったく異なっている。そもそもお金は相対的に語るべきものである。お金がない人にとって、お金を得ることはとても価値がある。一方でお金持ちにとっては、よりお金を使わないように工夫する生活が、実は豊かな時間を生む。
新型コロナの流行を背景に、2020年くらいから人々の価値観に大きな変化が起こった。
それは「時間濃度」という概念の表れである。豊かで濃厚な時間、時間の密度の高さこそが人生でもっとも大切であるという価値観が表出してきた。
時間の豊かさを担保するものは、自然や身近な人との触れ合いや関係である。経済システム(価値交換システム)の中で、匿名資本たるお金を使うことは矛盾を引き起こす。お金は、文脈やつながりを匿名化し、断ち切ってしまうからだ。お金は豊かさのために使うものだが、使えば使うほど、逆に人と人との距離が遠くなるという矛盾が起こる。
豊かさの本性は「時間の密度」にある
平成が空間の時代だったのなら、令和は明らかに時間の時代だ。
平成のビジネスの目的は、距離という概念をゼロにすることだった。主役はインターネット、そしてLCC、新幹線のオペレーションが究極的に進化したのも平成だ(余談だが、新幹線の恐ろしさは車体の精巧さではなく、完璧なタイムマネジメント、そして天災や事故などのリスクマネジメントにある。ヨーロッパのTGVもすごいが、あれは先頭車両が後ろの客車を引っ張っているに過ぎない。新幹線はほとんどの車両が駆動している) 。
平成とともに始まったインターネットが牽引した、距離を問わないコミュニケーションは、コロナショックによる完全遠隔業務でとどめを刺した。
もはや東京の会社に在阪のまま就職し、定年まで勤め上げることも可能になった。これから人々は暮らしと労働を完全に切り分けて、前者はよりフィジカルに(風や波を感じる)、後者はよりヴァーチャルに(ネットやデジタルで完結させる)なってゆくだろう。
人類は距離を克服した。人類共通の敵として世界を一つにしたのだから、コロナは皮肉なものだ。人々の心の距離も縮まりつつある。残念ながらそれは同時に、土地が持つ独自性や民族の価値観・文化も一元化させてゆくだろう。
距離を克服した人間の関心は、自ずと時間に向かう。 すなわち時間という誰にとっても絶対軸であったものが変形し、歪み、伸縮性を持つということだ。
少々話が難しく感じるかもしれない。しかしたとえば、「人生100年時代」といわれて久しいが、そんな虚構を信じている人はいないだろう。人生の濃度(密度)でいえば、最初の50歳までが8割、残りの100歳まではせいぜい2割の濃度しかない(図3―2)。
想像してみてほしい。10歳の頃の記憶はそのすべての日々が瑞々しく鮮やかに思い浮かぶが、40歳の頃の記憶など、3つも思いつけばいいほうだ。海馬に蓄えられている記憶の量からしてその程度のものなのだ。要するに、人生は年齢ではなく、その密度の積分である。坂本龍馬や三島由紀夫が崇拝されるのも、短く太い人生を生きたからだ。
フランスの哲学者ポール・ジャネは、「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」と言った。人生とは時間の長さだけでなく、その密度が大事であり、それこそが豊かさの本性であると彼は喝破したのである。