軍閥以外の各方面にも影響を与えた五・四運動
五・四運動は、軍閥だけではなく各方面にも影響を及ぼしました。革命を指導してきた孫文は、今までは実のところ大衆の力を軽んじていて、少数のエリート・富裕層こそが革命を担うと考えていたんですね。でも五・四運動のパワーを見て目からウロコ。大衆の力こそが革命の原動力だと考えを改め、1919年に立ち上げた中国国民党では大衆にも門戸を開きました。
一方で1921年に中国共産党※が成立します。ここで、共産主義と民族運動の関係について説明しましょう。共産主義は本来ナショナリズムを否定します。労働者が愛国心を持つと、ライバル国の労働者と協力できず手強い資本家に歯が立たない、つまり世界革命を起こせないからです。
※ 以下共産党と明記
でもレーニンは、植民地におけるナショナリズムは認めました。愛国心に満ちた労働者が民族運動に身を投じて植民地支配から独立できれば、植民地から搾取していた「ボスキャラ」たる英仏の資本家にダメージを与え、英仏での共産主義革のアシストにつながると考えたのです。この時、植民地の労働者と資本家が手を組むという現象も起こり得るわけで、中国共産党は一旦は資本家主導の国民党との提携にふみ切ったんですね。これが第1次国共合作。
大衆の力を評価する孫文も合作に乗り気で、国民党・共産党VS軍閥・列強という構図が見えてきました。しかし、軍閥と戦う準備の途上に孫文が病死。「革命いまだならず」という遺言は広く知られるところです。
孫文の後継となったのが黄埔軍官学校の校長を務め、国民革命軍総司令官となった蔣介石。国民政府が置かれた広州から、軍閥打倒のために国民革命軍が出撃して、北伐が始まりました。
国民革命軍は次々と軍閥を打ち破っていきます(共産党も奮闘!)が、国民党の中には共産党との連携をめぐって不協和音が……。実は蔣介石は筋金入りの反共で、共産党との協力に日ごろから不満を抱いていました。
この状況下、イギリスやアメリカは(今まではどちらかといえば軍閥寄りだったんですが)蔣介石に接近し「共産党を潰してくれれば、これからは国民党を支持する」と提案。中国最大の浙江財閥が蔣介石側に立ったこともあって、共産党を切り捨てる機は熟した、というわけです。1927年4月12日、共産党員の一斉逮捕・虐殺(上海クーデタ)が断行され、国共合作は崩壊へ向かいました。
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