“ドイツ流の憲法がつくりたい!”…渡欧した伊藤博文
“石先生”シュタインとの出会いが伊藤の運命を変えた
明治十四年の政変(1881)を機に、政府はドイツ流の立憲政治を参考に、君主が定める形式の欽定憲法を制定する方針を決定しました。伊藤博文は、憲法制定の主導権を握るため、憲法調査を目的に渡欧しました。
しかし、その出鼻をくじいたのが、ベルリン大学のグナイストでした。グナイストは、日本が立憲政治を取り入れるのは時期尚早だと伊藤に説き、その後の教説も伊藤を満足させるものではありませんでした。
ところが、伊藤がウィーン大学の「石先生」シュタイン(“Stein”は「石」の意味)と出会ってから、状況は一変します。
シュタインは伊藤と意気投合し、憲法や議会制度だけでなく、近代的な行政システムや、憲法のなかの君主の位置づけなど、立憲体制を備えた国家構造のあり方を教えました。
特に、伊藤が行政の重要性を認識したことは、憲法と議会に目が行っていた民権派に対する大きなアドバンテージとなります。自信を得た伊藤は、帰国すると、行政組織を中心とする体制整備を一気に進めました。
帰国後、伊藤が着々と整備した「立憲体制」
華族令(1884)を定め、公家・大名に加えて国家に功績ある者(薩長藩閥勢力など)も華族とし、将来の貴族院の基盤を作りました。
そして、太政官制[だじょうかんせい]を廃止して内閣制度(1885)を創設し、薩長藩閥内閣が成立しました〔第1次伊藤博文内閣1885~88〕。
各省の長官に国務大臣を置き、総理大臣中心に内閣を構成して、各省の連携で政府を強化しました。さらに、帝国大学を設置し、官僚の試験採用制度を整えて、官僚を供給するシステムを作りました。
内容は国民に知らされず…秘密裏につくられた「憲法草案」
憲法草案の起草は伊藤博文に井上毅[こわし]・伊東巳代治[みよじ]・金子堅太郎が加わり、ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得ながら秘密裏に進められ、完成した憲法草案は枢密院(1888)で審議されました。
枢密院は、のち天皇の諮問をうけて国家の重要事項(緊急勅令や条約など)を審議する機関となりました。
そして、〔黒田清隆内閣1888~89〕の1889年2月11日(2月11日は、初代の神武天皇が即位した日とされる紀元節)、大日本帝国憲法が発布されました。内容が国民に知らされることなく作成され、天皇の名で発布された欽定憲法でした。
外国人教師のドイツ人ベルツの日記は、憲法発布前の東京の状況を「滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ。」と記しています。
憲法とあわせて地方制度が整備…行政区分「市」が登場
この時期、山県有朋内務大臣とドイツ人顧問モッセを中心に新たな地方制度が整備されました。市制・町村制では、郡と同レベルの「市」という行政区分が登場しました。また、府県制・郡制によって、府県会の議員は市会議員・郡会議員の投票による間接選挙となり、県民が直接選挙で選べなくなりました。
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