太宰がなにより逃げたかった「耳が痛い言葉」
母より特別な女中のタケが訪ねてきたときも、太宰は“逃げた”
太宰の逃亡といえば、『走れメロス』の着想にもつながったとされる、友人の壇一雄を置き去りにした「熱海事件」がよく知られている。
しかし、太宰にしてみれば、からんでくる酔っ払いや、飲み屋の支払いを押しつけられて怒る友人よりも、よっぽど逃げたいものがあった。それは、自分に向けられた「耳が痛い言葉」である。
裕福な家庭で生まれた太宰は、2歳から6歳頃まで女中のタケに育てられた。太宰は『津軽』でこんなふうに書いている。
「私はその人を、自分の母だと思っているのだ。30年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、その人の顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない」
それだけ特別な人ならば、再会はさぞ感動的になるはず。妻はそう考えたが、終戦翌年の4月、疎開先を訪ねて来たタケに対して、太宰の態度はよそよそしかったという。妻が来てくれたタケと立ち話をしているときに、太宰が書斎から出てくるも、妻と一言、二言交わしただけで、すぐに母屋に戻っている。
育ての親に「よく来たな」とも言わない太宰を意外に思っていると、タケはぼそりと「修治さんは心が狭いのが欠点だね」とつぶやいたという。
唐突ではあったが、妻はそれを聞いて、ピンと来る。太宰はまさにこの瞬間に居合わせたくなくて、逃げたのだと。
妻は結婚したときに、太宰に釘を差されたことを思い出し、こう述懐している。
「結婚直後、『かげで舌を出してもよいから、うわべはいい顔を見せてくれ』と言われて、啞然とした。また彼がとくに好まないことの一つは女房の前で何か苦言をあびることである」
いかにも繊細な太宰らしい。逃げ足の速さは、傷つきやすい性格からきているのだろう。
“書きかけの原稿は置いていけない”…小説には真摯に向き合った
そうして危険を察知するとすぐさま逃げた太宰だが、珍しく逃げ遅れたことがある。
戦時中、甲府に疎開していたときのことだ。東の愛宕山に照明弾が落とされた。もしものときのために家族で取り決めていたように、妻が下の乳児を、太宰が4歳の長女を背負い、逃げ出すことにした。
だが、そのとき珍しく太宰の逃げ出すタイミングが遅れた。書きかけの『お伽草紙』の原稿や預かり原稿、創作年表、万年筆、住所録など、大切な品々をまとめていたからだ。
厄介なトラブルや自身への苦言とみるや、逃げまくった太宰。だが、小説の執筆だけには真摯に向き合い、いかなるときも書き続けた。
真山 知幸
著述家、偉人研究家
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