戊辰戦争後、旧幕府勢力はどのように力を失っていったのか?
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言います。討幕派が「王政復古」で樹立した新政府は旧幕府との戊辰戦争(1868~69)を勝ち抜き、権力を握りました。新政府は鳥羽・伏見の戦いで「官軍」として勝利し、徳川慶喜が降参して江戸城が無血開城すると、旧幕府直轄地を没収しました。
新政府に反発した東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成したものの、その中心の会津藩(藩主松平容保)が敗北して会津若松城が落城し、最後は箱館五稜郭に立てこもった幕臣の榎本武揚が降伏して、戊辰戦争は終結しました。
新政府は、どのように成立していったのか?
戊辰戦争と並行して、新政府は体制を固めました。1868年、基本方針として天皇が神々に誓う形式の五箇条の誓文を公布し(長州の木戸孝允が最終的に内容を確定)、「広ク会議ヲ興シ」の文言に始まる公議世論の尊重や、列強の支持を得るための開国和親を示しました。
一方、民衆支配の方針として各地に掲げた五榜の掲示では、徒党・強訴やキリスト教の禁止など、江戸幕府の支配を踏襲しました。さらに、政府組織を規定した政体書を公布し、中央では太政官に権力を集中させ、地方では旧幕府直轄地に府・県を置いたものの、大名が支配する藩は残りました。これを、のちの版籍奉還・廃藩置県で解消します。
また、元号を明治として一世一元の制を採用し(天皇在位期間と元号が一致)、翌年に京都の天皇御所を東京の旧江戸城に移転しました(東京遷都)。
中央集権体制
大名の領地・領民の返上には、どのような意味があったのか?
家臣と主従関係を結び、藩の領地・領民を支配する大名は、自らの軍事権と徴税権を持つ存在でした。いきなり藩が廃止されたら、領地を拠点に家臣を率いて抵抗するかもしれません。
そこで、新政府は版籍奉還(1869)を実施し、将軍から御恩として与えられた藩の領地(版)と領民(籍)を天皇へ返上させました。そして、旧大名は同じ藩の知藩事に任命され、引き続き藩内の統治にあたりました。
藩の枠組みは残りましたが、旧大名が新政府の地方長官になったことで、大名と家臣の主従関係は無くなり、廃藩置県を容易にしました。
明治新政府による政治的統一は、どのように達成されたのか?
1871年、新政府は廃藩置県を断行しました。抵抗を防ぐため薩長土3藩から御親兵を集め、知藩事を罷免して東京に居住させました。新政府が任命した知藩事を新政府が辞めさせるという巧みな方法で、旧大名の力を喪失させたのです。
そして、藩を廃止して県を設置し、府知事・県令を政府から派遣して、中央集権体制を確立しました。また、各藩に属した軍事権・徴税権を新政府が接収し、統一的な軍制・税制(徴兵制・地租改正)実施の基盤が整いました。
そして、政府中央組織は、太政官の正院(太政大臣・左右大臣・参議)が最高行政機関となり、薩摩・長州・土佐・肥前の下級藩士出身者が参議や各省の卿(長官)などの地位を握って、藩閥政府が確立しました。