ペリーとプチャーチンの来航が「鎖国ニッポン」を変えた
【欧米列強のアジア進出と日本】
アメリカは、日本では田沼時代にあたる、18世紀後半に建国されました。
国土は大陸東岸(大西洋岸)から西岸(太平洋岸)まで拡大し(カリフォルニアでの金鉱発見によるゴールド・ラッシュも西岸への人口移動を促進)、19世紀半ばに北太平洋での経済活動(捕鯨や清[シン]との貿易)が活発になると、燃料・水・食料を入手する寄港地の役割を日本に期待しました。
ペリーは浦賀[うらが]来航の直前に琉球[りゅうきゅう]を訪れ、下田[しもだ] ・箱館[はこだて]の開港を定めた日米和親条約調印の直後に琉球と条約を結んでおり(箱館・下田・琉球は、ほぼ等距離に位置する)、アメリカの総合的な東アジア戦略がうかがえます。
また、欧米の対外進出の背景には、機械制生産の進展(産業革命)がありました。機械は人間の出せないパワーを休むことなく出し続けるので、原料不足と製品余剰を生じさせます。
こうして、原料供給地や製品市場が不可欠となり、植民地・権益の獲得や不平等条約による経済進出を進め、その波が幕末の日本にも押し寄せてきたのです。
和親条約の不平等性は、どのような点にあるのか?
天保[てんぽう]の改革の直後、幕府は「鎖国」を理由に、オランダ国王の開国勧告(1844)や、アメリカのビッドルによる通商要求(1846)を拒絶しました。
しかし、ペリーがビッドルの失敗を教訓に、軍事力を誇示して開国と通商を迫ると(1853年、軍艦4隻で相模浦賀[さがみうらが]へ来航)、12代将軍家慶[いえよし]が病に倒れる状況下で幕府は決定を避け、ペリーを帰国させました(将軍は13代家定[いえさだ]に)。
「黒船」に蒸気船が含まれたことから、「太平の眠りを覚ます上喜撰[じょうきせん]たった四杯[しはい]で夜も寝られず」(「上喜撰」=上等の茶)という狂歌も登場しました。
翌年ペリーが再来航し、幕府は日米和親[わしん]条約(1854)を結びました。伊豆下田[いずしもだ]と蝦夷地箱館[えぞちはこだて]を開港し、アメリカ船が望む物資は幕府が供給しました。政府の規制が無い自由貿易は許可せず、幕府のしたたかな交渉がうかがえます。
しかし、片務[へんむ]的な最恵国[さいけいこく]待遇が規定されました。「近代国家の三要素」の一つである主権は、国内の個人や集団を支配し、国外からの干渉を退ける独立性・対等性を持ちます。
他国よりも不利にならないように優遇する最恵国待遇について、それを与える義務が日本にのみ存在するのは(片務的)、主権の面でアメリカと対等とは言えません。
江戸幕府は、ロシアとどのように向き合ったのか?
ペリーと同じタイミングでロシアのプチャーチンが長崎へ来航し、翌年に結ばれた日露和親条約では、千島[ちしま]列島の択捉島[えとろふとう]と得撫島[うるっぷとう]の間を日露間の国境としました(樺太[からふと]は両国の国境を定めず)。
こうして、日本は米・英・露・蘭の4カ国と国交を樹立し、「鎖国」体制を転換しました。
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