終戦後も続いた「欲しがりません勝つまでは」…年10%の経済成長を達成しても日本の会社が”戦時中”の給与制度を貫いたワケ

終戦後も続いた「欲しがりません勝つまでは」…年10%の経済成長を達成しても日本の会社が”戦時中”の給与制度を貫いたワケ
(※写真はイメージです/PIXTA)

日本の給与制度の根幹には、戦時中の賃金統制令で根付いた「最低限度の生活を保障する給与=生活給」という考え方があります。これを差別的として制度の見直しを命じたGHQに労働省官僚は反論し、その後交渉を重ねる中で日本独自の給与システムが形成されていきました。本稿では、平康慶浩氏の著書『給与クライシス』(日経BP日本経済新聞出版本部)から一部を抜粋し、日本企業の給与の成り立ちをみていきます。

時間給という考え方はいつ生まれたか

 

日本において時間給概念が明確に発生したのは、新民法施行と同年となる1947年に施行された労働基準法制定によると思われる。

 

それまでも女性や子どもに限定して一日の労働時間に上限を定めていたが、それも12時間という長時間のものだった。そして、男性については労働時間の定めはなかった。

 

しかし労働基準法により、1日あたり8時間、週あたり48時間の上限が定められるようになった。このときにあわせて25%の割増給与についても明確に記され、現在に至る。

 

諸説はあるだろうが、「働く時間が増えれば給与が増える」と法律に記されたのはこのタイミングだ。

 

時間給概念とあわせて、1950年代に賃金センサスが実施されるようになる。現在は賃金構造基本統計調査と改称されているこの統計は、賃金についての大規模調査だ。企業規模や業種に応じた給与統計を集めることは、国家としての労働問題解決に必須だった。

 

その統計処理の一環として、1950年代半ばには賃金労働時間調査が始まる。

 

この頃の労働省官僚の記録を読む限り、外部労働市場を軸とした世界基準の制度を導入すべしとしたGHQへの反発が強かったことがわかる。

 

また、戦時中の賃金統制令による生活給的な給与制度を肯定する意見も多く見られる。つまり、戦後になってなお「欲しがりません勝つまでは」というスローガンが引き継がれているようにも見える。ただしこの場合の勝つまでは、とは、経済が復興し世の中が豊かになるまでは、ということだが。

 

ともあれ、時間給概念と生活給概念が広がる中、働く一人一人は、長時間労働が生活を豊かにするという理解を進めていったと考えられる。

 

おりしも1954~57年にかけての神武景気、58~61年にかけての岩戸景気が続き、ホワイトカラー労働者の割合が増加してゆく。それまでの労働時間あたりの働き方を意識していたのは主にブルーカラー労働者だったが、本来時間あたりの賃金が適さないと思われるホワイトカラー労働者に対しても時間給&生活給の概念が浸透していった。

 

三種の神器といわれる冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが普及する中、1960年には池田内閣による国民所得倍増計画が示される。その後1970年に至る高度成長期は、年率10%の経済成長を実現し、人々の所得水準も大幅に引き上げたのだ。

 

つまり十分に「経済が復興し世の中が豊かになる」状態が築かれたわけである。

 

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給与クライシス

給与クライシス

平康 慶浩

日経BP日本経済新聞出版本部

同じ仕事をしている限り、給与は「ずっとそのまま」の時代!? これからやってくる”ジョブ型”時代を僕たちはどう生きるか―― ”そうはいっても、日本はまだまだ年功序列でしょ? ” ”なんだかんだ言って終身雇用は続く…

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