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「殿とは戦いたくない」という武将も
■一揆を平定、三河統一なる
寺々に籠った家臣の数は、事件の発端となった上宮寺の200余騎をはじめ、本證寺 ・本宗寺・勝鬘寺が各100余騎で、上記以外の寺々を全部合わせると1000騎をはるかに超え、双方ともにおびただしい戦死者が出る悲惨な結果を招いた。
腕に自信があった家康は、自ら出陣して槍を取って戦っている。史料を見ると、波切孫七郎は家康の槍で二度突かれて逃げ去ったとか、大見藤六郎は軍議の内容を一揆軍に漏らしたことを知って家康は首を取ろうとしたが、その前に水野太郎作が大見の首を持ってきたので大喜びしたといった武勇伝がいくつも残されている。
また、一揆方に身を投じた家臣のなかには、「殿とは戦いたくない」といった武将が何人もいたし、土屋重治などは家康が危ないところを見た途端、助けようと寝返って戦死している。かと思えば、蜂屋半之丞は大久保忠勝に諭されて帰順を願い出たというような逸話も多い。
三河の一向一揆で講和に尽力したのが、大久保彦左衛門の叔父忠俊。大久保忠俊は、岡崎に参上し、家康に向かって、一揆に加わった者800余名すべてを許してほしいと次のように諭した、と『寛政重修諸家譜』(1812〈文化9〉年成立)は記す。
「去年以来、日々の合戦に某<それがし>が一族、身命を顧みず、君のために討ち死にし、あるひは、疵をこうむる者少なからず。君もしその忠義を忘れさせたまわずば、その恩賞に代えて、彼が請うところを免じたまへかし。しからば、彼の徒をもって先陣とし、上野城を攻め、吉良・荒川の両家を滅ぼし、ことごとく西三河を平治せば、御家門高大ならん。某、老耄して、事をなす事能わずといへども、いささか君のために遠をば駆り立てまつるところなり」
家康は、心を打たれ、その願いを聞き入れたのだった。家康は聞く耳を持っていたのである。
そのほかにも、一揆の大将になった家臣で国外逃亡した者(鳥居四郎左衛門、波切孫左衛門、本多弥八郎ら)もいたが、赦され、のちに帰参する。また家康は、逃亡僧も赦し、家康の叔母芳春院(生母お大の姉、妙西尼)の頼みを聞いて一向宗の道場再建も許した。
こうして1564(永禄7)年2月、一向一揆を平定し、三河をついに統一したのだった。家康、23歳のときである。盟友関係にある織田信長が近江の浅井長政と同盟を結ぶのは、その1か月後。家康の目は、浅井長政や朝倉義景に向けられた。
城島 明彦
作家
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