(※写真はイメージです/PIXTA)

終末期医療を疑問視する見方が増えるなかで、より自然で穏やかな最期として「在宅看取り」が注目されています。「家族に囲まれた最期」という穏やかなイメージがありますが、実は在宅看取りのすべてがそうではないと、ねりま西クリニックの大城堅一院長は指摘します。いったいなぜか、みていきましょう。

自宅での看取りは、家族の負担が大きいことも

第一の理由は在宅医療の目的が在宅看取り重視になってしまうと、高齢者本人や家族にとってマイナスになるケースもあることです。

 

例えば在宅医療=在宅看取りというイメージが強くなると、本来は在宅で療養できる患者でも、「在宅医療は終末期や看取り期の人が選ぶものでうちはまだ当てはまらない」と考え、無理を押して通院・入院治療を続けるようになってしまいます。

 

あるいは自宅で看取りまで行う自信がないから、「在宅医療を導入できない」となる例も考えられます。本来、在宅医療の対象は終末期・看取り期の人に限りません。自力での通院が困難で、自宅で治療・療養をしたい人が利用できるものです。

 

また在宅に移行する時点で、看取りの場所や方針を決めている必要もありません。最初から「最期まで自宅で」と決めている人はそれもいいですが、まだ看取りの方針は分からない人や、普段は自宅で療養して体調が悪くなったら病院へ行きたいという人は、その思いを在宅医に伝えれば希望に添った対応をしてもらえます。在宅医療は決して看取りだけを扱うものではないのです。

 

また自宅での看取りはなんとなく「住み慣れた家での穏やかな死」「家族に囲まれて迎える温かい最期」というイメージがあるかもしれません。

 

しかし実際は在宅看取りのすべてが穏やかな最期になるとも限りません。特に見送る側の家族に看取りの覚悟ができるまでには多くの葛藤があり、長い時間がかかることも少なくありません。

 

これには日本人の死生観も関係しているように思います。日本人にとって人が死ぬことはゼロになることでつらく耐え難い恐怖です。だから死を認められず、受け入れられないとなってしまいます。

 

これに対しアメリカなどキリスト教の国の人々は、死後は神に召されて天国に行くと考えます。欧米諸国にボランティア活動が根付いているのは必ずしも他人のためではなく、死後に自分が天国に行くためだったりします。家族にしても、親しい人の死はつらい別れではありますが、日本人よりも死を自然な現象として受け入れています。

 

家族の死を認められないという人にとっては、前もって看取りの場所や方針を決めるというのは、とても難しいものです。看取り以前に家族と終末期医療の方針を話し合うのですら、困難なことがあります。

 

高齢の親を介護している息子さん、娘さんに延命治療の希望を尋ねても、「そんなこと分からない」「医師に任せます」となることがよくあります。家で家族の看取りをすることは非常にハードルが高くなっているのです。

 

 

大城 堅一

医療法人社団星の砂 理事長

ねりま西クリニック 院長

 

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※本連載は、大城堅一氏の著書『自宅で死を待つ老人たち』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

自宅で死を待つ老人たち

自宅で死を待つ老人たち

大城 堅一

幻冬舎メディアコンサルティング

最期まで充実して「生きる」ために 超高齢社会における在宅医療の 新たな可能性を説く―― 在宅医療は“ただ死ぬのを待つだけの医療"ではない。 患者が活き活きと自宅で過ごし、 外来と変わらない高度な医療を受けられ…

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