22歳で家康に改名、25歳で徳川は改姓
■決意表明、改名「家康」
1567(永禄6)年、22歳の7月に元康は改名した。改名は、「独立宣言」といってよい決意表明だった。前年1月に信長と結んだ軍事同盟が大きな後ろ盾となった。
今川と縁を切ったことで、義元からもらった「元」の字がついた元康とオサラバをし、「家康」と名乗ったのである。14歳で元信、16歳で元康、17歳で初陣、19歳で桶狭間の戦い、そして岡崎城の城主として独立。20歳で三河の平定に着手するや、翌年には西三河を平定し、22歳で家康に改名したわけだが、姓は松平のままで、徳川に改姓するのは3年後の25歳、従五位下三河守に叙任されるときになる。
どうして「家康」にしたのか。どうして元康の元を「家」に変え、「康」の方はそのままにしたのか。康は〝中興の祖〟といわれる祖父の清康から採っている。
では、「家」はというと、軍学を好み、兵書を暗記している青井意足という光明寺の住職が、「元康殿は、源氏の末裔と承っております。であれば、八幡太郎義家( 源義家)の『家』の字を取って名乗られたらよいのでは」といったら、家康が喜んだという話が『尾張志』に載っている。源義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏の共通の祖先である。
■徳川の由来
話のついでといっては何だが、家康が「松平」から「徳川」に改姓した理由や家紋の由来についても触れておこう。
家康の初代は「徳阿弥」と称した時宗の遊行僧である。出自はよくわからなかったが、岡崎から20キロばかり北方の松平郷の土豪太郎左衛門の娘お亀に婿入りし、松平親氏と名乗って勢力を少しずつ拡大していったのが、そもそもの始まりである。
そういうどことなくパッとしない新興の家柄だったから、箔をつけようと考えたのだろう、三代目の信光が「源氏の出だ」と言い出した。松平郷が京都の賀茂神社の荘園である点に着目、「賀茂源氏」と称したのである。賀茂神社の神紋が「葵」であることから、その葵を松平家の家紋にした。
この信光、発想力に秀でていただけではなかった。精力の方も抜群で、48人もの子を成した。その遺伝子が、のちの家康をはじめ、何十人もの子をつくった歴代将軍にも引き継がれたのかもしれない。それはさておき、松平家は、「数は力なり」といわんばかりに、宗家を中心に諸家がどんどん増殖、一大勢力を形成していったのである。
家康が改姓した「徳川家」のルーツはどうなっているのかというと、家康の祖父清康(松平家の7代目)が「三河守」に任官してもらいたくて、「世良田氏の後裔」を自称し、「世良田源氏」を名乗って正親町天皇に働きかけたところ、「世良田源氏三河守任官の前例がない」という、もっともらしい理由で拒否された。早い話が「うさんくさい」と見られたということだろう。
では、世良田氏とはどういう氏素性なのか。清和源氏の新田氏の一族で、平安時代末から鎌倉時代にかけて、上野国で荘園を所有していた豪族。つまり、上野国新田郡世良田郷の領主で、始祖は八幡太郎義家の曾孫にあたる得川四郎義季だという。どこまでが真実かは確かめようがないが、家康が目をつけ、「得川」を「徳川」に変えたのだという。そして家康は、関白の近衛前久に頼んで天皇に認めさせた。
家康は22歳で元康から家康に改名し、3年後に松平から徳川へと改姓した。
徳川家康。25歳の青年は、この姓名に大きな将来の夢と限りない希望を賭けたのである。
城島 明彦
作家
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